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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

ゴースト・イン・ザ・シェル - 必要だったのは美術でなく情報という話

攻殻機動隊』の映画版。カットカットではすごく「らしい」絵が見られるのに、全体を通して、何でこんなぼんやりとした印象なんだろう。思い至ったのは、美術のディレクションだ。

優秀なアーティストによって過剰なまでに装飾された近未来都市やサイバースペース。でもそこからは、『攻殻機動隊』を『攻殻機動隊』たらしめる、トリビアルな情報が伝わってこないのだ。映画の世界が、「なぜそうなったのか」が伝わってこない。リアルじゃないんだ。

あらすじ

家出少女が自分探しする。

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いやほんと、物語はどうでもいいんだ。テーマもどうでもいい。どうでもいいっていっちゃ悪いけど、ありがちなテーマも、なんだかしっくりこない物語の運びも、アニメ版にだっておおもとの漫画にだってあったわけ。

でも、その背景となる世界に関して言えば、原作漫画はもとより、複数のアニメ・TVシリーズとも(『イノセンス』であっても)、それは単なる「近未来」ではなく、トリビアの塊のようなものだった。複数の世界大戦やその後の政治状況、科学技術の発展は、年表ができる程度に現代から敷衍されたもので、義体サイバースペース、コンピューティング技術だけでなく、政治体制や兵器、航空機、民間文化、交通機関や建築に至るまで、「なぜそうなったのか」が想像できるものだった。

ところがこの映画にはそれがない。舞台は日本とも香港とも知れぬ謎の「国」。ビルを覆うような巨大な3D広告も、アジアの都市の過剰広告をモデルにしたものだろうが、あくまで映画の画面の背景としてインパクトが出るようにしたもので、根本的なリアリティがない。行き交う人々の特殊メイクも同様で、華美で奇妙なだけだ。あの巨大3D広告に本当に広告効果はあるのか? なぜあんなメイクが常態化するに至ったんだろう? 世界に統一感がない。見て想像する手がかりが、あまりに小さい。

 

美術の作り方が、とても美術的なんだ。アジア都市の綿密な取材で得られたエキゾチシズムと未来の手触りを純粋に増幅させ、美しく見えることに固執したように思える。社会学的・技術的に「なぜそのような都市、そのような社会となったか、それが進化するとどうなるのか」という発想が見えない。それじゃあ表面的だ。

おかげで物語やテーマまで、空虚で上滑りなものに見えてしまう。緻密に作られた世界の中でこそ、ゴーストに突き動かされた運命の出会いは成立する。ソリッドでない舞台の上では、それは単なるご都合主義だ。

WETA社の人材をふんだんに使って、大隊規模の人員でVFXやメイクの見本市みたいな画面を作るんなら、体に線引いただけに見える義体のパーツの分かれ目を立体的に描くとか、そっちの方面に使ってくれればよかったのに。

 

SF作品は「世界」がしっかり作られていれば、そこで何をやっても面白くできる。いや自動的に面白くなるとは言わないけど。一方世界設定がロジカルでないと、中途半端な近未来ファンタジーにしかならない。だってSFって、外挿的なものでしょう。映画を観終わって、そんな当たり前のことを感じている。

 

 

 

食い意地:練馬 蕎麦『ふる井』

休日、久々に練馬を散策したので、豊玉の蕎麦『ふる井』で昼から蕎麦飲み。

駅から遠く、自動車で来るようなお店でもなく。小さくとても良質で、近所の人が続々と集まる、たいへん良いお店。

お昼のセットメニューはよいものがそろっているけど、夜メニューも頼める。日本酒も。季節のお料理をおつまみに、お酒をいただく。 

わさび菜の和え物。

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たけのこ焼き。

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日本酒は『伯楽星 純米吟醸 おりがらみ』に、勢いがついてメニュー外の『越乃景虎 にごり生』。前者はフルーティでまろやか、後者はなめらかな舌触りで、柔らかだけど後味にぴりっと残る。おいしい。

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そして天ぷら。すごい盛りだ。季節ものだから、ゼンマイやコチも入ってる。コチは夏の魚だと聞くこともあるけど、春の花の咲き始める頃がおいしいとかなんとか。

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あまりの食いでに、肝心の蕎麦の写真を忘れてしまった。細打ちですっきり。天ぷらも衣が軽く油っこいわけではないので、ちょうどいいバランス。

たらたらと歩いて、徳田の立派な早咲き桜を見て、哲学堂の水道タンクまで足を延ばす。

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以前世田谷の砧から桜上水のあたりを真っすぐ貫いている道を歩いていて、正面にこの配水塔が見えたときは、はっとなった。この道は荒玉水道道路。なるほど繋がっていたわけだ。

休日練馬から中野に向かう道は、車も人もほとんど通らず、空は広く、実に散策向き。

 

『沈黙 -サイレンス- 』 キリスト教の映画としてではなく。

原作を読んだ記憶はあるものの、ぼんやりとしか覚えていない『沈黙』。映画版を観る前に再読しようと思っていたけれど、その前の下敷きとしてWebで勧められていた講談社選書『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』を読み始めるとこれが存外に面白く、そちらにかまけて結局再読せずに観に行ってしまった。

人間のありようを描く映画として

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映画は意外なほど、もとの小説をそのまま描いているように思える。いやなんせ薄い記憶だからアレなんだけど、特に「日本という沼」という表現は、原作者のキリスト教者としてのありかたと、日本で生まれ育って得た自然な生活意識とのせめぎあいが、そのまま出ている言葉だと思う。小説の書かれた1960年代の日本において、あるいは、そこに至る歴史の中で、キリスト教とは何だったのか。神とはなんだったのか。彼の苦悩に想いを馳せることができる。

ただ、常に感じていたことだけれど、この小説・映画をして「キリスト教(徒)とはこういうものだから」「日本(人)とはこういうものだから」という前提で考えてしまうと、それはすごく浅薄で、見当違いの思想を自分の中に生み出す結果になってしまうんじゃなかろうか。

むしろ自分は、キリスト教とか、日本とか、そういう枠ではなく、それこそユニバーサルな人間のありようとして、小説を、映画を心に残そうと思った。以前もそうだったし、今もそうだ。

いまを描く映画として

弱い人がいる。弱い人の中にも小ずるい人がいる。小ずるく見えて、実は実直な人もいる。信念(信仰)を貫く人がいる。その信念ゆえに人を苦しめる人がいる。信念ゆえに偽善を行う人がいる。目の前の同族を救いたいと思う、人間の本質的な感情がある(動物にだってある感情だ)。そして、その感情と信念とのせめぎあい、苦悩がある。

こんな映画にはそんなものが、つぶさに描かれている。17世紀だから、キリスト教だから、日本だからではなく、疑問と矛盾に満ちた世界が続く限り、いつの時代にも、どこにでもあるものなんだと思う。観た直後に自分の心に生まれたのは、宗教や日本に対する何かではなく、つくづく、人間とはなんとままならないものかという、重苦しい感情だった。

だから、この映画はいまの、現実的な物語として消化することができる。踏み絵はどこにでもある。世界情勢がより複雑さを増し、身近な社会からも物質的な豊かさが失われつつあるいま、それはより先鋭的に現れるようになってきたのかもしれない。テレビの向こうの話ではなく、自分にも、自分の半径3mの世界にも起こり得る問題だと思える。

これからの人生、これからの社会ににどう向き合っていけばいいのか。この映画は歴史にやつしてその答えを出すわけじゃない。出せないということがテーマなんだから。答えを出せない世界で、じゃあどうしたらいいんだろうか。そんなことを、ため息交じりにぼんやりと思っている。それが、遠藤周作とスコセッシがこの映画で与えてくれたものだ。それってなんだか、合点の行く話。

 

遠藤周作にとって神とは

そのうえで、の話。キリスト教者としての遠藤周作の問題意識に共感する。結局、神はどこにいたのか。弱き人々の中(なり前なり側なり)にはいなかったのか? 弱く小ずるく、告解を求めては背を向け逃げ出す、髪は乱れ痩せ細った裸体の男の中にはいなかったのか? 太陽や神羅万象の中にはいなかったのか? 棄教しつつ思わず主と口走る神学者の中にはいなかったのか? 神の沈黙を知り、自らを沈黙の身に落としたパードレの中にはいなかったのか? いや、いたはずだ。そう思えなきゃ、やってらんない。

 

余談1:窪塚洋介

窪塚洋介が最初に出てきたとき、いいの? スコセッシの映画で、この英語演技でいいの!? と思ったけど、再登場するたびに観る側の目が馴染んでいったのか、どんどん良くなっていくように感じた。特にロドリゴ奉行所に行ってからの再登場は、神がかって見えた。字幕翻訳もそれに応じてか、端的な文のなかに生の感情が感じられるすばらしい表現だった。

余談2:『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』

『沈黙』はキリスト教徒としての主観的な物語だけれど、こちらでは日本の当時の支配者層がなぜそれを恐れたのか、島原の乱などで数十万が虐殺されたのか、多層的な構造が語られていて面白い。

キリスト教コミュニティは加賀の一向一揆コミュニティと同じで、封建体制の完全な枠外となってしまう恐怖があった。幕藩統治の問題が宗教的な排外思想と密接に結びつき、苛烈な取り締まりが起ったのだ。また拠り所がキリスト教だろうがなんだろうが、そこから行われる一揆は、すなわち藩の悪政の結果なので、これが起こると領主もまた悪として幕府からも民衆からも断罪されるという構造があったという。

余談3:これってほとんど台湾映画じゃん!

ロケ地に台湾が選ばれたとは聞いていたけど、エンドロールのスタッフを見て、中国系の名前の圧倒的な多さに改めて驚いた。ハリウッドに中国系の人材が多いとかそういうレベルじゃない。この映画を実質作り上げたのは台湾の人々だし、良い監督の良い指揮があれば、どの国のスタッフであろうと良いものを作り上げることができると、つくづく感じだ。