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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『ライフ』 - 真田広之がとにかくいい映画。

真田広之がとにかくいいわけですよ、この映画。端正な英語演技、記憶に残る存在感、かといって主役を喰うわけでもなく。人種でどうこう言うのは苦手だけど、真田せんせいは過去多く演じてきた「ミステリアスなアジア人」から一歩進んで、ハリウッドトップクラスのバイプレーヤーとしての地位を確立したんじゃないかと思う。

あらすじ

宇宙ステーションで大騒ぎ

感想

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演出の都合で現実よりだいぶ広い国際宇宙ステーションで、6人のクルーが恐怖と対峙するわけだけど、真田せんせいはそのシステムエンジニアとして、ステーションを恐怖から救うため活躍するのが仕事。その活躍っぷりは、実は能動的なことはほとんど何もしない主役ジェイク・ジレンホールよりよっぽど立派。

でも真田せんせいの活躍、存在感の理由は、日本人ならではの何とかでなく、その「普通さ」にあると思う。むしろ普通であるがゆえに活躍の機会が与えられたんじゃなかろうか。

まず「普通に英語で演技ができる」という、日本から渡米した役者の最大の難関をクリアーしていること。英語が当たり前に喋れて、かつ自然に日本語を交えることができる。二か国語のできる役者はザラだけど、日本語のできる日系人の役者はなかなかいない。次に外見。なにか特徴だった容姿でなく、目の細い典型的なアジア顔なのがプラスに働いていて、適度に地味。髭はそこに良いアクセントになってる。結果的とはいえ計算つくされたような演技・外見は、白人の主役を喰うほどでもなく、しかしその背後で確実に印象に残る。人に対して使う言葉じゃないけど、「使い勝手がいい」というのは、こういうことなのかな、と思う。

無重力のステーションを動き回る姿を再現する力業に近いワイヤー特撮も楽々こなしたろう、アクション俳優出身の身体能力の高さも、ここまでの活躍に至ったポイントのひとつだと思う。後半飛びながらCGIキャラにキックするその「当たってる感」とかすごい。

いやあ、ここまで「普通に演じられる」役者になるのは、並大抵のことじゃなかったと思う。

 

ホラー映画では馬鹿から順にひどい目に遭って殺されるというジェネラル・オーダーがあるというのは、ホラーをたしなまない私でも薄々分かってて、この映画も原因を作った馬鹿や熱血馬鹿がわりとひどい殺され方をする。だけど、真田せんせいは最後までしっかり活躍したうえで、残酷描写のない、ある意味きれいな最後を迎えられる。彼の存在感がドログチャエンドを許さなかったということなんだろう。いや、ほんといい演技、いい存在感だった。

 

で、映画としてちょっと思うのは、その馬鹿とアホの少なさ。宇宙ステーションという設定からか、登場人物6名みんな科学者・宇宙飛行士然としていて、前記の2名の馬鹿も比較的馬鹿でない。献身的な任務をこなし感動的な最後を迎える宇宙飛行士もいる。これはなホラーの文法でなく、ディザスター映画の文法だと思う。

純ホラー映画といわず、残酷であるが故の笑いは、やっぱり馬鹿がアホやって殺されるから映えるし、自分はそれを求めてるんだと思う。宇宙で場違いなセックスやってその隙に殺されちゃうのとか、そういうのが見たいわけ。生き残った2人が今生の別れとセックスして襲われるんじゃないかと最後まで期待してたもん。今回。

その辺が不満といえば不満だけれど、恐怖の緊張感は持続するし、最後の様式美的な結末(あっけらかんとしたエンディング曲含め)もよろしく、重たい映画ばかり観ているなか軽くさわやかな後味を感じるよい映画でした。 

映画『ウォー・マシーン 戦争は話術だ!』 - 「情けない」おはなし

観終わって、なるほどと感心した。こういう映画はNetflixだからこそできたのかもしれない。ド派手なブロックバスターとも、単館系の物語映画とも、あるいはテレビサイズのドキュメンタリーとも違った、特異な手触りだ。

あらすじ

部下からの信頼も厚いアメリカ陸軍マクマホン大将は、泥沼化したアフガニスタン紛争で「勝利」を収めるため、現地に赴く。自分の手で実電できる範囲の勝利を自分自身で定義し、その実現のための手段を練る将軍。彼の試みは、成功するのか?

配信

ノンフィクションの手触り

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最近読んだ本に、『アシュリーの戦争』という米国作家のノンフィクションがある。米軍初の女性特殊部隊が、どう構築され、アフガンの戦場でどう戦ったかを、綿密な取材を重ねたうえでひとつの物語のように書き上げた本だ。その結末はつらいもので、どっしりと思い感動が心に残る。それは「泣かせ」じゃない。個人の感情の話に走らず、組織や状況がなぜ、どのように作られ、どのような結果になったかを、ノンフィクション特有のドライな筆致で積み上げていく。その結果として、ある暗い理解をもたらす。

本作にも、このノンフィクションとそっくりの手触りを感じた。

映画の原作『ザ・オペレーターズ』は、ジャーナリスト、マイケル・ヘイスティングがローリング・ストーン誌に発表した、陸軍大将スタンリー・マクリスタルの密着取材記事を書籍にまとめたもの。『ウォー・マシーン』は架空の物語となっているけれど、ノンフィクション本の雰囲気をそのまま映像化したんだと感じられる。

 

この映画はドライだ。序盤で観る側の感情をコントロールする物語の起伏もなく、つらつらと将軍と仲間たちの行動が描かれていく。ブラッド・ピットの演技は少し浮世離れしたところがあり、そこもまた、感情移入を拒む。

コメディのジャンルにカテゴライズされている本作だけれど、その枠に入るものか、正直自信がない。風刺的な映画だが、個別の状況をことさら明示的に批判していない。音楽やセリフで「これは愚行ですよ」と強調しない。ただ将軍と仲間たちの行為が流れてゆく。その流れ全体から、不穏さ、愚かさが滲み出ている。

もちろんエンタメ映画だから、終盤にはある程度分かりやすく演出されたクライマックスがある。ティルダ・スウィントンが演じるドイツ人政治家が(この人ほんと誰にでもなれるな)、彼の一連の作戦の問題を鋭く指摘するシーンは、アフガニスタン戦争における状況全体の何が問題なのかを見事に表している。それは、米軍が問題解決という名のビジネスのロジックで戦争をしていることだ。正義と人道の実現のための戦争の中身は、乾いたビジネススキームの積み重ねだ。その枠の中で、人は成功を求めてしまう。

 

映画は、そのビジネスの失敗の物語だ。成功も栄光も、一瞬たりとも出てこない。マクマホン将軍とアフガニスタン紛争は、ただただ、失敗していく。さらに、その失敗が繰り返されていく。そこに怒りを感じるか? 悲しみを感じるか? 自分に残ったのは、なんというか、情けないなあ、という感情だった。『ウォー・マシーン』は、そんな感情を与えてくれる、稀有な映画だ。

マイケル・ヘイスティング

もうひとつ、この映画は作るに値する理由があったと思う。映画の原作『ザ・オペレーター』を上梓したマイケル・ヘイスティングは、その後も米国連邦政府に対する批判的な取材記事を出し続けていたが、2013年に交通事故を起こし、33歳の若さで亡くなっている。この事故は夜明け前の時間帯に彼の運転する自動車が最高速度で並木に激突するというもので、その状況から陰謀説が囁かれている。

ドラマチックな陰謀説にはあまり与したくないけれど、あまりの若さで世を去ったこの作家の業績は、広く伝えられるべきだろう。自国の暗部を明らかにし、国をより良いものにする機会を作ろうという彼の意思が、映像作品として常に手の届くところに置かれる意義は深いんじゃなかろうか。

映画『ある決闘 - セントヘレナの掟』 - それは神話か、という話

一癖あると聞いて観に行った西部劇『ある決闘 - セントヘレナの掟』、なるほどちょっと毛色が違った。物語の大枠は連続殺人の潜入捜査、描き出すのは神話の誕生。

あらすじ

19世紀末、南北戦争の混乱が尾を引く米国テキサス州で、リオ・グランデ川に多数のメキシコ人の他殺体が流れ着くという事件が発生する。事態を重く見たテキサス州知事は、ひとりのレンジャーを潜入捜査員としてリオ・グランデ上流の町に派遣、犯人と目される町の支配者「宣教師」の調査を命じる。

しかし、彼と宣教師には浅からぬ因縁があった。彼の父親はかつて、宣教師に決闘を挑み、殺されていたのだ……。

感想

f:id:debabocho:20170624205301j:plain何と言ってもこの宣教師の存在感! ものすごい。禿頭碧眼で目の上に入れ墨を入れた、荒木飛呂彦の漫画から出てきたような濃いキャラだ。むしろいつスタンドを出してもおかしくないぐらい、スーパーナチュラルな不穏さで満ちている。

この世から半歩ズレてしまったような不穏さは、冒頭レンジャーが町に向かうあたりからひたりひたりと増していくんだけれど、宣教師と会ってからはもう完全に不穏さに飲み込まれる。「北部の教養ある人間が南部の知らない町で怖い目に合う」っていう典型的なアメリカ都市伝説の雰囲気だ。宣教師は怪しげな力で町の人々をマインドコントロールしており、かつ俗悪。そこはもうフォークロア空間だ。

で、観ていてはたと思った。ひょっとしてこの映画、後半本当に超自然現象的な、悪魔との対峙とか魔界からの脱出とかのストーリーに転がり込むつもりでは? まさかのVFXもりもりで。

 

あいにくというか幸いというか、そうはならないあった。あくまでこれは西部劇、決闘と銃撃戦のある西部劇だ。

ただ、その決闘を経て、物語の正体は明らかになる。これはフォークロア的な恐怖に巻き込まれた男の物語じゃない。フォークロアを作る男の物語なんだ。つまるところ、神話の誕生と言ってもいいんじゃなかろうか。

 

主人公の敵対者である宣教師は、物語が進むにつれ、単なる敵キャラクターではなく、物語のゴール、主人公の内的な欲求そのものにも等しい、別種の存在であることが明確になっていく。それはレンジャーが乗り越えるべき「悪」であり、取り戻すべき「父性」でもある。

かつて彼の父親が「宣教師」になる前の男との決闘に敗れたとき、子供の彼は宣教師と目線をかわし、その瞬間何かが分かれた。子供は知性と正義を分け与えられたレンジャーになった。男はその残り、悪と混沌を分け与えられ、同時に本物の父親を力でしのぐことによって、彼の父性をも引き継いだ。つまるところ、宣教師はレンジャーにとって「悪」と「父性」の混合物だ。

レンジャーがその存在と再会したとき、彼は直視を避けようとするも、結局は引きつけられる。宣教師は失われた邪悪な半身であり、同時に父親でもあるからだ。その宣教師も、邪悪さゆえに手に入れられなかった「愛」をレンジャーから奪おうとする。この愛をめぐる流れは、じつに象徴的で神話らしい。

 

そしてクライマックス、レンジャーと宣教師は、対立の中で無意識に融合をはじめる。ライフル銃による遠隔地からの狙撃戦から、ピストルレンジの銃撃戦、そして手と手の触れ合うレンジに。この対決は凄まじい見ごたえだ。様式美的なカッコ良さではない、戦う者の息遣いが感じられるバトルは、西部劇としての面目躍如だ。

引かれ合いながらも、決して平等に溶け合うことのできないレンジャーと宣教師。その極限の戦いは、聖母の名を持つ者が現れ、遂に幕を降ろす。レンジャーは奪われた愛によって世俗に生きる理由を失うが、代償として、父親を知ると同時にそれを乗り越え、完全な自分を取り戻す。彼は人知れず、神話的な存在となったのだ。そして彼は、森の中に消えていく……。

 

西部劇にモダンな潜入捜査ミステリーをかけあわせたのかと思いきや、映画は意外なところに着地してしまった。もちろん映画の構造はしっかり現代のエンタメ劇になってるし、アクションはすごい。でもそれ以上の不思議な手触りが、この映画にはある。

確かに、マトモに考えれば、プロットが着地というより拡散して消えてしまったように見える点もある。でも同時に、これはそうでなければならないんだという強い納得感もある。

 

不思議だけれど、納得感のある物語だった。なんでそう感じるんだろう。神話はすべての物語の原点だからか、などとテキトーなことを言っておく。

余談

ひとつ難点を言うと、主役2名以外の演技が、もう少し良かったらと思うんだけど、まあそこは全体のバランスをとるうえでの判断だったのかな、とも思う。