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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー - 救いのない葛藤の映画

ちょっと感情的な話だけど、この映画をみてほんとうに、スーパーヒーローものが厭になってしまった。映画の出来がどうこうじゃなくて、映画の示す価値観に、息が詰まってしまったから。そんな自分が辛い。

 

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正義の戦いのなかで数々の副次的被害を出してきたスーパーヒーローたちが、二つの価値観で袂を分かつ。かたやアイアンマンの「正義を守るためには、国連という大義に従うべきだ」。かたやキャプテン・アメリカの「正義を突き通すためには、自らの心にのみ従う自由な自警団であるべきだ」。

この2つの正義のありかたに、観ていて激しい苛立ちを感じてしまった。二つの思想は、どちらも強大なパワーを持つ者の独善で、被害者、弱き者の視点が、どこにもないから。どちらも「弱者を救う」ためにはどうすべきか、という建前なのに、結局、強者である自分たちがどう生きたいのか、ということに執着しているだけだと思える。

そして二つの独善は戦いを始め、またぞろビルを、空港を破壊し、人々を逃げまどわさせる。器物破損、傷害、危険運転公務執行妨害、両者で殺し合いをしたのだから殺人未遂、決闘罪を加えてもいい。そんな法も周りの迷惑もわきに置いて、「自分がどうしたいか」のためだけに、無責任に大バトルを繰り広げる。アクション映画なんだから戦うのは当然なんだけどさ。価値観に対する違和感が大きく育ちすぎて、ぜんぜん純粋に楽しめなくなってしまったわけ。

 

そして、それがこの映画の本当に凄いとこでもあるのだけれど、「弱者の視点」はどこに現れるかというと、「悪役」として現れる。陰謀術でふたつの正義を戦わせ、実はその戦い、二つの価値観の違いにはなんの意味もなく、本当に空虚なものだったというのを、クライマックスで見せつける。

ほんと救いがない。なぜ犠牲者が、悪の復讐者として描かれなければならないんだ。映画の構造上理解できても、気持ちが受け付けない。

空虚な戦いのあと、映画はヒーローたちに、言ってみればご都合主義的な希望を与えて終わるのだけど、自分に植え付けられた葛藤はまったく解決しない。そう、本当に厭なのは、この先どれだけ映画がつくられても、この問題はぜったいに解決しないことだ。

 

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というのはスパイダーマンのテーマだけれど、アヴェンジャーズも、X-メンも、DCのヒーローも、大作映画になればなるほど、このテーマが物語の葛藤のコアとなる。『シビル・ウォー』は、その葛藤に解決策がないことを、明確に示した。辛すぎる。さすがにもう、スーパーヒーロー映画は卒業しよう。そう思ってしまった。

 

……と言いつつも、ま、新作がでればまた観るんだろうけど。だってやっぱりMARVELのロゴが出たときのワクワク感には抗えないし、『デットプール』とか、変わり種もたくさんあるしね。 

 

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