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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

スター・ウォーズ フォースの覚醒 - 映画感想:チューバッカのごとくありたい。

びっくらこいた! スター・ウォーズを手に入れたJ.J.エイブラムス。手癖の強い彼は、スター・トレックぐらいオリジナルシリーズとテイスト変えてしまうかもしれないと不安になっていたが、きちんと作ったのである。やはり思い入れの強さが違った。あとスタトレと違ってスター・ウォーズは変えたら殺されかねないからな。

しかし不思議なことに、この映画はやはりJ.J.エイブラムスの映画だとわかる。アクションのケレンとか、暗い場所のシーンの青っぽさとか、ユーモアの方向性とか、シナリオの構成とか。なんだかわかんないけど、とにかくエイブラムスっぽいのだ。よかれ悪かれ、これが作家性というものなのだろう。 

 

そこで、疑問がわいてくる。いや、自己矛盾を感じる。それでよかったのか? それが見たかったのか?

これはJ.J.の腕で作り上げた、オリジナルシリーズの再現だ。見える光景も、戦闘の密度も、しっかりとIV章~VI章のテイストに合わせてきている。そのうえで、J.J.は自分のやりたいことをやっている。しかしこれでは、なんというか、ぶっちゃければ同人スター・ウォーズみたいじゃないか! IV章~VI章のとは実時間でも作品内時間でも断絶があるのだから、もっと新しい、驚くようななにかが、見たかったのではないのか? 初めてスター・ウォーズを観た時のようななにかが。 

 

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実は、I章からIII章の新3部作が好きだ。正統派冒険活劇だったIV章~VI章から離れ、アナキンの成長に沿う形で帝国創設の政治と経済的側面を描いた。ついでに恋愛映画としてもやってのけた。映像もぐっとスケール感が増して、大きな宇宙史の転換点を見ているという感覚を得ることができた。

新3部作は、今までにない別の切り口で、スター・ウォーズ宇宙を広げ、サーガへの入り口を切り開いてくれた。クソだ味噌だジャージャーだと言われる新3部作だけど、ジョージ・ルーカスは作家として正しいことをしたんだし、そこに描かれているものは、確かに新しく、おもしろかったのだ!(少なくとも自分にとっては!)

 

 翻って、これからのJ.J.3部作で、IV章~VI章とは違った風景、新しい感動を得ることができるのか。

そんなもの求めてない人のほうが多いだろうし、簡単にできることじゃない。下手な挑戦をして失敗したら文字通り殺される。求められるのは、38年前とおなじ感動の再現なんだろうと思う。

 

だとしたら、なおさら腹が立つのだ。IV~VI章の、大好きだったあのキャラたちが、子供のころテレビで出会ってから繰り返し刷り込まれ、ずっと心の中で生きていたあのキャラたちの時間が、強制的に前に進められてしまったことに。

オリジナルシリーズとあまりにも変わらないスター・ウォーズの世界のなかで、そこに生きる人々だけが、時を進められ、我々を置いていってしまった。二度と戻ってこない。それならば、ここから始まるのは、これまでとはまったく異なる、新鮮な物語でなければならないはずなのに、それが見えてこない。

何も変わっていないのに、決定的に変わってしまった。この混乱した感覚は、どうしたらいいのだろう。おそらくJ.J.はあまりに巧くオリジナルのテイストを再現したために、IV章~VI章の永遠だった世界を、ストレートに引っ掻き回されてしまったように感じるんだ。

 

物語の終盤、新世代の主人公たちを助けたチューバッカの瞳を見たとき、涙が出た。進んでしまった時を哀しみ、それでも新しき者たちを受け入れ、いつくしむ、あの瞳。あのシーンだけは、ほんとうによかった。

自分もチューバッカのような心を持てますように。そして願わくば、次のVIII章では、まったく新しい感動と出会えますように。

 

あー、あと、もうひとつ言いたいことがある。

J.J.エイブラムスはスター・トレックでもやったけど、空を見上げると惑星の崩壊が見えるって描写はあきらめろよ!「超光速レーザー」はデス・スターのも実質そうだったから仕方ない(いいの!)。だけどひとつの星系に無法ものの隠れ家惑星と共和国首都惑星の両方があって、それも月程度に目視できる距離っていくらなんでも宇宙小さすぎだろが。