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farsite / 圏外日誌

Gaaoline's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『沈黙 -サイレンス- 』 キリスト教の映画としてではなく。

原作を読んだ記憶はあるものの、ぼんやりとしか覚えていない『沈黙』。映画版を観る前に再読しようと思っていたけれど、その前の下敷きとしてWebで勧められていた講談社選書『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』を読み始めるとこれが存外に面白く、そちらにかまけて結局再読せずに観に行ってしまった。

人間のありようを描く映画として

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映画は意外なほど、もとの小説をそのまま描いているように思える。いやなんせ薄い記憶だからアレなんだけど、特に「日本という沼」という表現は、原作者のキリスト教者としてのありかたと、日本で生まれ育って得た自然な生活意識とのせめぎあいが、そのまま出ている言葉だと思う。小説の書かれた1960年代の日本において、あるいは、そこに至る歴史の中で、キリスト教とは何だったのか。神とはなんだったのか。彼の苦悩に想いを馳せることができる。

ただ、常に感じていたことだけれど、この小説・映画をして「キリスト教(徒)とはこういうものだから」「日本(人)とはこういうものだから」という前提で考えてしまうと、それはすごく浅薄で、見当違いの思想を自分の中に生み出す結果になってしまうんじゃなかろうか。

むしろ自分は、キリスト教とか、日本とか、そういう枠ではなく、それこそユニバーサルな人間のありようとして、小説を、映画を心に残そうと思った。以前もそうだったし、今もそうだ。

いまを描く映画として

弱い人がいる。弱い人の中にも小ずるい人がいる。小ずるく見えて、実は実直な人もいる。信念(信仰)を貫く人がいる。その信念ゆえに人を苦しめる人がいる。信念ゆえに偽善を行う人がいる。目の前の同族を救いたいと思う、人間の本質的な感情がある(動物にだってある感情だ)。そして、その感情と信念とのせめぎあい、苦悩がある。

こんな映画にはそんなものが、つぶさに描かれている。17世紀だから、キリスト教だから、日本だからではなく、疑問と矛盾に満ちた世界が続く限り、いつの時代にも、どこにでもあるものなんだと思う。観た直後に自分の心に生まれたのは、宗教や日本に対する何かではなく、つくづく、人間とはなんとままならないものかという、重苦しい感情だった。

だから、この映画はいまの、現実的な物語として消化することができる。踏み絵はどこにでもある。世界情勢がより複雑さを増し、身近な社会からも物質的な豊かさが失われつつあるいま、それはより先鋭的に現れるようになってきたのかもしれない。テレビの向こうの話ではなく、自分にも、自分の半径3mの世界にも起こり得る問題だと思える。

これからの人生、これからの社会ににどう向き合っていけばいいのか。この映画は歴史にやつしてその答えを出すわけじゃない。出せないということがテーマなんだから。答えを出せない世界で、じゃあどうしたらいいんだろうか。そんなことを、ため息交じりにぼんやりと思っている。それが、遠藤周作とスコセッシがこの映画で与えてくれたものだ。それってなんだか、合点の行く話。

 

遠藤周作にとって神とは

そのうえで、の話。キリスト教者としての遠藤周作の問題意識に共感する。結局、神はどこにいたのか。弱き人々の中(なり前なり側なり)にはいなかったのか? 弱く小ずるく、告解を求めては背を向け逃げ出す、髪は乱れ痩せ細った裸体の男の中にはいなかったのか? 太陽や神羅万象の中にはいなかったのか? 棄教しつつ思わず主と口走る神学者の中にはいなかったのか? 神の沈黙を知り、自らを沈黙の身に落としたパードレの中にはいなかったのか? いや、いたはずだ。そう思えなきゃ、やってらんない。

 

余談1:窪塚洋介

窪塚洋介が最初に出てきたとき、いいの? スコセッシの映画で、この英語演技でいいの!? と思ったけど、再登場するたびに観る側の目が馴染んでいったのか、どんどん良くなっていくように感じた。特にロドリゴ奉行所に行ってからの再登場は、神がかって見えた。字幕翻訳もそれに応じてか、端的な文のなかに生の感情が感じられるすばらしい表現だった。

余談2:『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』

『沈黙』はキリスト教徒としての主観的な物語だけれど、こちらでは日本の当時の支配者層がなぜそれを恐れたのか、島原の乱などで数十万が虐殺されたのか、多層的な構造が語られていて面白い。

キリスト教コミュニティは加賀の一向一揆コミュニティと同じで、封建体制の完全な枠外となってしまう恐怖があった。幕藩統治の問題が宗教的な排外思想と密接に結びつき、苛烈な取り締まりが起ったのだ。また拠り所がキリスト教だろうがなんだろうが、そこから行われる一揆は、すなわち藩の悪政の結果なので、これが起こると領主もまた悪として幕府からも民衆からも断罪されるという構造があったという。

余談3:これってほとんど台湾映画じゃん!

ロケ地に台湾が選ばれたとは聞いていたけど、エンドロールのスタッフを見て、中国系の名前の圧倒的な多さに改めて驚いた。ハリウッドに中国系の人材が多いとかそういうレベルじゃない。この映画を実質作り上げたのは台湾の人々だし、良い監督の良い指揮があれば、どの国のスタッフであろうと良いものを作り上げることができると、つくづく感じだ。