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『猿の惑星 新世記(ライジング)』映画感想: 神なき世界の猿と人

SF的な“進化”を真摯に描いた『猿の惑星 創世紀(ジェネシス)』の続編にあたる本作。描かれるテーマは異なれど、前作に勝るとも劣らない傑作SF作品だった。

冒頭の前作をおさらいする3分間の映像コラージュは、単体で人類の滅亡を描くショートフィルムとして出色のものだったし、そこから始まる15分はまさに驚きだ。人語が一切聞こえてこない。森の中での猿の暮らしが、豊かに描かれる。彼らの手話、彼らの表情の素晴らしさといったら! もうここだけで1800円の価値がある。

そして、猿と人が出会い、濃密な闘争と相互理解の物語がはじまる。ただ、そこで感じたのは、妙な話だけれど、“神の不在”だった。

あらすじ

人類が、ウィルス実験によってその人口のほとんどを喪失し、既に10年が過ぎていた。ロサンゼルス近郊の森には、実験で知性化した猿類のコロニーがあり、猿たちはそこで子を産み、育て、暮らしていた。

いっぽう小規模ながら生き残り、文明復興を目指すLAの人間たちは、水力発電所を回復するべく、偵察隊を森に送り込んだ。彼らとの対話を得た猿類のリーダー、シーザーは、互いの過去を乗り越え、平和的な独立を維持しようとする。しかし、出会ってしまったふたつの知的種族は、互いに不信を募らせ、衝突への道へと進んでいった……。

レビュー

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前作でその映像演出が見事だったのは、実はそこに神の存在を感じさせていたからだと思う。幾度も象徴的に現れる天窓の光、その窓の外の光景に憧れ、導かれるように、セコイアの樹の高みに登っていくシーザーたち。キリスト教だとか、そういう固定的な宗教を明確に示すものはどこにもないけれど、やはりどこかで、人間とは違う、より気高いなにかを意識させていた。人の檻と知性の檻、両方からの救いを求め、高みに近づこうとする猿の姿には、神を求める人の姿が重なる。

キリスト教などの一神教が身近でない日本でニュースを見れば、その宗教を過剰に信仰する人々は奇異に写るものだけど、実際一神教の根付いた世界の多くひとびとが感じる「神」とは、この映画で描かれた程度の存在なのだろうと思う。神とは、単に経典や戒律のなかの存在ではなく、よりよく生きたい、心をより高く持ちたいという、人の持つ希求そのものを象徴化したものだ。

そういった文脈では、猿と人、また猿どうしのコミュニケーションが主体の本作は、前作にあったあの特有の気高さはない。本作のSF性は進化描写そのものではなく、対話と闘争を通じて、よりよく進化したはずの猿自身に「猿も人と変わらない」というセリフを言わしめた、一種の逆説性にあると思う。神への道はもう存在しない。とことん世俗的な、政治、戦争、支配と裏切りの物語だ。

 

そして。神のメタファーは、終盤シーザーが再びあの天窓の模様を見てから、再び強力に現れる。セコイアの樹の代わりに現れ、最後の決戦の場となるタワービルは、バベルの塔だ。高みを目指したはずの猿類は、その頂上でケンカを始めてしまう。一方地獄に落とされた人類は、塔の地下でその破壊をめぐり仲間割れとなる。

当然、塔は崩れる。そうやって物語は終わる。第3弾に現れるだろう地獄を予感させて。

苦しい終わりだったけれど、次作に期待せざるを得ない。この進化の物語がどう終わるのか、はたして3作で完結できるのか、見届けなくちゃならない。