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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

続けることってすごい - 劇場版ガンダム Gのレコンギスタ IV

あのころガンダムが好きだった子供も、歳をとった。富野由悠季監督の作品が好きで、きっちり見届けなければ自分にけじめがつかない。いまはそんな気持ちで、『Gのレコンギスタ』を観続けている。

 

きょう、5部構成の第4部となる『激闘に叫ぶ愛』を観てつくづく思ったのは、「ひとつことをずっと続けるというのは、とてもすごいことだ」ということだった。

 

いま80歳になる富野は、半世紀も前から、ロボットアニメを作り続けてきている。10年と間を置かず、何かしら自分の作品を創造し、演出を続けている。手を変え品を変え、所詮アニメ、所詮ロボットと自嘲しながらも、その時々の思想を込めて、その時々でできる技法を盛り込んで。

 

お陰でどうだ、このGレコの豊饒さは。まるで食べても食べても終わらない高級幕の内弁当みたいだ。テレビシリーズの再編集版だから、だいたい今回はここからここまでと頭で理解できているのに、観ているとまだ終わらないの? まだ終わらないの? と逆にハラハラしてしまう。

 

キャラクター劇として

GのレコンギスタIV フィルム: アイーダとマニィ

とにかく隙間がない。喋っていない時間などないのではと思える、高密度のセリフの掛け合いがずーーーっと続く。キャラクター一人ひとりがきちんと演技をして、その世界での居場所を明確に示してくれる。一人ひとりに見せ場があり、感動があり、成長が描かれる。

 

姫として世界との向き合い方を理解するアイーダ。弟として自分の居場所を見つけ、やるべきことをやると心を決めるベルリ。ひそやかに恋心を膨らませるノレド。同じく、愛する相手に追いつき抱きつこうとするマニィ。自我を取り戻し、人らしい友情をはぐくむラライヤ。

 

リンゴのあけすけな好意。ケルベスの微笑み。ラ・グーの達観。キア・ムベッキの決断。クン・スーンの涙。

 

すべてが魅力だ。膨大なキャラが織りなし、あふれだす物語を2時間に収める。たとえワンカットだけの演技でも、そこから彼ら彼女らの個性と人生が透けて見え、想像力で埋めることができてしまう。そんな芸当ができるのが、50年間作品を作り続けてきた富野由悠季の演出の技術であり、才能だ。見せつけられる。

 

ロボットアニメとして

そしてまた、何より彼はアニメのロボットアクションを世界で一番うまく演出できる。彼自身アニメーターではないのに、描かれる多彩なマシンの一挙手一投足がユニークで、アクションに説得力がある。

 

また、これだけの高密度な劇なのに、彼はただやられるだけの脇役メカを作らない。主要キャラクターが搭乗しないリジットやポリジットですら、設定をフルに活かしたアクションで「なぜこのメカなのか」を視覚的に理解させ、楽しませてくれる。アニメの中では、人型ロボットもキャラクターだ。カラフルな色を纏い、登場人物の意志を代弁する。

 

なぜモビルスーツが人型でなければならないか(また、時に人型を外れなければならないか)が、この作品をみているとよくわかる。

 

富野の演出で、モビルスーツ1体々々のデザインが映える。すべての機体にこれほど魅力的なアクションがつけられているのに、模型でマーチャンダイズされないのが不思議でならない。

 

ひとつの世界として

なにより腹に落ちるのが、Gのレコンギスタで描かれる世界が、本当にひとつの世界としてまとまっていることだ。これまで多様なロボットアニメの中で、人のありよう、統治や政治、環境や歴史に対する考えを断片的に盛り込んできた彼は、ここで遂に、自分の想像力をすべて盛り込み、完成された”作品世界”を作り出すことに成功している。

 

宇宙世紀のようなパッチワーク的世界ではない。バイストンウェルのようなファンタジーの世界でもない。歴史、経済、技術、それらを作り営む多様な人々の思想。それらが相互に作用し、きちんと動いている世界が、ここに作られている。

 

エンドクレジットで描かれる、TV版から大きくアップデートされた宇宙エレベーターのナット(中継ステーション)の絵を見せられた時、これは確かに「文明」だわ、とほとほと感心した。人が宇宙に住み、そこで文化というものを持てば、こうなるだろうというのが感覚的に分かる。

 

同時に、繰り返し描かれる、宇宙船の外にある派手過ぎるぐらいにまばゆい星原を通して、相対的な人々の小ささに想いが至る。「文明」とはいえ、所詮は情けない人の営みの重なり。そういう突き放した視点を、富野はときおり差し込んでくる。

 

そういったものを、富野は50年の反復の末に、ひとつの作品の中で描き出すに至ったのだ。彼個人のディレクションによって。

 

 

Gレコ第4部で、改めてずっしりとした物語を受け取ったと思う。そりゃ技巧的な話をすれば、彼の手癖の悪さもあろうし、伝わらない演出も、整理できないプロットもある。盛りだくさんだ。しかしそんなものを措いて伝わるパワーがある。50年の積み重ねがある。それの何分の一かにファンとしてつきあってきたからこそ、迎合して感動できる自分がいる。

 

歳を取ってしまった。何かにつけ、もう自分に新しいこと、面白いことはできないのではないかと思ってしまえるほどに。そうではないな、と思い直す映画だった。人は生涯を通して、誰かに何かを伝え続けなければならない。彼ほどでないにしろ、とにかく。