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『ガンダム Gのレコンギスタ』 人と人とを引き寄せるビーム

こちらの記事を読んで、『Gのレコンギスタ』の思い出がまた色々とよみがえってきた。

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富野監督は、世界を表現するあまりドラマが描けていなかったとおっしゃるけれど、その世界に入り込んで観るものにとっては、十分なドラマだった。大きな物語としては、確かに筋道が立っていなかったのかもしれない。でもこの設定、この世界に住む人々、一人ひとりの暮らしが、ドラマになっていた。

 

ひとつ、富野監督が描いた“世界”が、ちらりとだけれど、物語のテーマと直接リンクしたのでは、と思えたシーンが、最終回にあった。

それは、トラクター・ビームだ。

欧米のクラシックな宇宙SF、いまもスタートレックでおなじみのトラクター・ビーム(牽引光線)を、富野監督は彼のガンダムという世界のなかで、再発見している。*1

 

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監督が40年近く描き続けてきたガンダムというロボットアニメにおいて、設定上の特殊な粒子から形成される“ビーム”とは、常に、敵を引き裂き、人を殺すための道具だった。その粒子は一種の斥力を形成するための道具としても描かれた。

その“ビーム”が、40年たったいま、はじめて、その機能を反転し「人と人とを引き付けあう道具」として主人公ベルリに語られ、使われた。混乱極まる最終展開の中でぽろっと出てきたその言葉に、私は物凄く感動した。

ただの便利なSFガジェットとして見てきたトラクター・ビームに、ガンダムの世界でこんな意味が与えられるとは。それは物語のテーマ、人による科学の再征服、人の復権に、ダイレクトにつながる。

面白いことに、「ビーム兵器」と「トラクター・ビーム」は、富野監督がこの作品のために研究した膨大な科学と社会の事象からは出てこない。監督がむかしからアニメの方便として使っていて、そこにガンダムにほれ込んだ人々が後付け設定をして科学的に仕立てた仮想粒子だ。

富野監督はその設定を消化して、「疑似的な斥力を得る粒子なら、反転して疑似的な引力も作り出せるはず」としてしまった。そして、そこに物語的な意味まで与えた。*2

やっぱり、ガンダムは富野監督のものだし、この発想、この設定は富野監督にしか作れないと思った。

 

さて、このエントリに「富野監督」は何回出てきたでしょうか?

*1:厳密には誰かほかのひとのアイディアなのかもしれないけれど、監督は物語の中でモノにしている。

*2:そもそもこの粒子は、宇宙で進化した人と人とが心を通わせるための道具としても設定されていたけど、それこそ相当後になっての追加設定、非科学的な現象を科学的に見せる方便のための設定だ

今年買って良かったもの:グリルパンで肉が焼けるのなんのってはなし。

趣味のもの以外は必要なものなのだから、買って良かったのどうのって考えはあまりしないのだけれど、今年買った“グリルプレス付き”グリルパンは肉を焼く上で革命的だった。1枚肉がぺろんぺろんと焼けるのなんの。

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よく食べに行くお店の人に、ステーキとかチキンソテーとかグリルパンがあるとラクですよと言われて買ったものの、想像以上だ。鶏もも肉1枚が、短時間で、要領もほとんど要らず、皮はサクっと中身はジューシーに焼けてしまう。こんなバカみたいな形容詞使いたくないんだが。

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しかしポイントは、プロの指摘しなかったこのグリルプレスにある。あったりまえだけど、押し付けると、ちゃんとむらなく火が通るんだなあ。両面に塩コショウを適当にふって、まず皮のない面を1分ほど押し焼きして、そしたらひっくり返して押し焼きして、まあ5分ぐらいでしょうか、いいかな? ま、こんなもんかな? と思ったところであげると、思った通りのこんなもんが焼きががる。あ、ニンニクは焼きすぎになるので途中で取った方がいいです。

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グリルである意味のすべては、この皮の焼き色に乗っている。これもあったりまえなのだが、接地面が少なく油が逃げてくれるので、べしょべしょにならずオーブンの手間もなく、サクサクの皮ができる。おなじうまいならラクなほうがうまい。オッカムの剃刀

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厳格な時間管理なしでも、焼き具合で失敗する確率がものすごく減った。表面をきれいに焼くことに執心して中身もパサパサなんてことはもう起きない。ちゃんとぜんぶに食中毒にならない程度の火が入って、かつジューシー。なおブタのステーキもうまく焼けた。牛もうまくいくだろう。ラムチョップは骨が変数になるのでわからん。

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あまった油は棄てればヘルシーなんだろうけど、めんどうなんで野菜を炒める。これはしめじパック半分ぐらいと、あとスーパーライフの顔の見える生産者さん(みな写真写りが半分犯罪者みたいな悪さで逆にリアリティがある)のコーナーで、興味本位で買ったアスパラ菜を半束。これ茎太いのに火の通りがいい。

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醤油を軽くかけ回した後、ラクを貫きとおして肉の上にドサっとやって、炭水化物なしでわしわし食べる。忙しくて外食・コンビニ・ドンタコスが続き栄養がヤバイと感じたとき、これで相当量が補給できる。価格はKFCのセットより安く、調理時間も10分以下。たいへんよろしいんじゃないでしょうか。

 

夢は「見る」ものなのかというはなし

けさ(というか昨夜、寝入ってすぐに)見た夢が久々にひどかった。夢のなかで自分が夢を見ていると気付き、目を覚ますが、それも夢だったという、まさに漫画によくあるタイプの悪夢。あるいは映画『インセプション』。

こういう夢は過去も見たことがあったけれど、今回はすごくクリアに、朝になっても覚えていた。なかなかの衝撃度だ。

夢のなかの夢で、自分は犬とともに旧い祖父母の家の中にいるのだが、その環境はどんどん説明のつかない矛盾した状態となっていく。そこではたと夢だと気付いて、夢の夢から目が覚めると、そこは祖父母の家の庭。

ああ良かったという安堵とともに自分の家に戻り、犬をなでて両親と会話するのだが、そこも次第に矛盾が拡大し始め、状況についていけず右往左往し始める。そして何の前触れもなく、本当に目が覚めた。

 

自分が本当に目覚めたと悟ったのは、その部屋が眠る前の部屋と同じだったことと、ストレスで固く握られた布団の手触り、そして自分の体がベッドに沈み込む重力だった。

思い出してみると、夢のなかの夢から目覚めた時、目覚めたと(偽りの)認識をできたのは、視覚情報からだった。「夢から目覚める直前に2,3度感じた光は、まぶたを通して見える街灯の光だったんだな」と夢の中で思ったのをはっきり覚えてる。

そんなものはもちろん、夢の中で脳の働きが作ったニセの記憶なのだけれど、それが手触りや重力の感覚で無いというのが面白い。視覚だけなんだ。

 

夢はやっぱり、「見る」ものなんだろうか? 触覚や嗅覚でなく、視覚優先なんだろうか?

ところが外国語だと、夢は意外と「見る」ものじゃない。英語では dream はそのものが動詞だし、ふつうに言えば "Have a dream"(強いて訳せば夢を得る)だ。"See a dream" とは聞いたことがない。中国語もふつう "做夢"(夢をする)。あれほど文法や単語の使いまわしが日本語と似ている韓国語も、夢は "꿈을 꾼다"(クムル クダ=夢を夢る)。

すると外国人は、夢とは「見る」ものと認識していない、現実と同じく、五感で経験するものだと認識しているんだろうか?

 

科学的なことなーんも調べずに書くけど、ひょっとして、日本語の「夢を見る」という表現に対する認識、高次の脳の働きが、夢の中の世界での視覚優先という状態を作ったのだろうか? ことばが、夢の世界を規定していたのだろうか?

いや、そんな言語至上主義みたいなのは、にわかには受け入れがたいけど、ちょっと夢がある。

 

ともあれ、そんな夢から覚めた後も、断続的にリアルな夢は何度も続き、何度も起きて朝を迎えた。ものすごく疲れた夜だった。