アメリカの偉大なSF作家、ラリー・ニーヴンは言った。SF小説とは、遊園地の遊具であると*1。作家の創造した世界・宇宙は巨大な遊園地であり、その中にどんな遊具=作品を置いて読者を遊ばせるか、そして、遊園地の楽しさに目を向かせるか。それが、SF、特にスペースオペラと呼ばれるジャンルの肝であるわけだ。
いま、それに最も成功しているのは、映像作品であるスター・ウォーズシリーズなのだと思う。
意外と低かった、米国での評価
『マンダロリアン&グローグー』の公開前、米国のエンタメ系メディアに出回った批評家による試写評は、少々不安を抱かせるものだった。短く要約するなら、「物語が小ぢんまりしていて、スター・ウォーズらしくない」というものだ。公開直後、イデオロギー的な批判をするSWファンダムではなく、良心的なSWファンからも似た声が聞こえたのが気になる。
果たして、実際観てみると――私は大絶賛だったわけだけど――確かにそういう批評もわかる。わかるのだ。
これは、単に作品がTVシリーズ的すぎるというだけではなく、エンタメ映画としての構造的な問題だ。
どこに問題があったのか? いろんな角度から論じることができると思うけど、ひとつ取り上げるのなら、悪役の造形だ。
足りなかったもの
新共和国のガバメント・コントラクターとして働く賞金稼ぎのディン・ジャリン(マンドー)は、弟子に取ったフォース感応者グローグーとともに、悪の帝国残党を追う。その中で、残党の情報を持つマフィア、双子のハットからの要請に応えることになるが――というのが今回のお話。で、この双子のハットが最終的な悪役となる。
問題はこのハットの「悪の動機」が浅いことだ。双子は自分たちの地位のためジャバの息子ロッタを捉えて拷問したいという単純な動機、内論で動いている。しかし、ロッタを捕らえることで双子が成しうる「一段上の悪」、マンドーに倫理的な葛藤を突き付ける悪の提示が無かった。ゆえに、古くからの言い方でいえば、第3幕がなかった。
持ち前の責任感で動いていたマンドーが、今まで認識していなかった真の悪を知り、それを乗り越えることで、マンドーのキャラクターとしての成長が完成される。一般的なエンタメ映画では、それは必須といえる構造だ。本作で言われる「スケールが小さい」という批判は別に銀河の危機だとか派手な艦隊戦が無いことではなく、そういう物語のスケール感のことだろう。
足りないままでいい、とも言い切れない
そんな映画の教科書的なストーリーデベロップメントは、『マンダロリアン』には必要ないのか? いや、そんなことはない。現にTVシリーズの3シーズンを貫いていたのは、その構造だ。
マンドーがグローグーを親元に届けるというミッションを遂行する中で、ミディ・クロリアン値の高いグローグーの体を使って最強のクローン(暗示されるのはEp.9のクローン皇帝の母体)を作りだそうという帝国残党の真の野望をが明らかになる。それゆえに彼の義侠心は正当化され、ついには新共和国の味方に成ったのだ。
しかし、映画ではその構造は取られなかった。TV作品でマンドーが既に正義=共和国の味方として成長してしまい、構造的にできなかったのかもしれない。一方で、敢えてやらなかったとも言えるだろう。映画の教科書に則りプロットを濃密化させるより、もっと描くべき事がある、そう判断したのではないか?
プロットを削ってでも描くべき事、それはグローグーの冒険と成長、そしてスター・ウォーズ宇宙の広さだ。
劇場版マンダロリアンの面白さ
『マンダロリアン&グローグー』の面白さの核心は、表現される宇宙そのものにある。氷の惑星から亜熱帯の基地、湿地帯の惑星、そしてサイバーパンクな廃頽都市へ。007よろしく次々と移り変わる舞台には、多様なガジェット、ドロイド、クリーチャーたちが、みっしりと埋め込まれている。IMAX仕様で天地が広くなったぶん、その密度はTVシリーズより更に濃密だ。
そして全体の1/4を使って描かれる、グローグーの生態。タイトルが示す通り、今作はグローグーも主役なのだ。今までマスコット的だった彼が、マンドーを失い、本格的に自分の意志で何かをなす、その様子が描かれる。同時に、ヨーダの種族としてのグローグーの生態も、執拗なまでに描かれる。グローグーを主体としたパペット演出は、デイブ・フィローニがかかりっきりで作ったという。映画史的な意味でも、その手法をきちんと残し、作りこむことが重要と判断したのかもしれない。
本作の面白さ、それは皮肉でもなんでもなく、ディズニーランドの面白さに似ている。単に遊園地のアトラクションがあるのではない。それぞれに濃密なバックグラウンドとなるストーリーがあり、目を奪われる美しい造形がある。その中を歩き回るだけで、楽しさが伝わっててくる。
それこそが、映像作品としてのスペースオペラであるスター・ウォーズの面白さの本質ではないか。
考えてみれば、シンプルな「英雄の旅路」型の物語を、濃密なSFガジェット&クリーチャーで味付けをして『スター・ウォーズ』という傑作に仕立て上げたのは、ジョージ・ルーカスその人であった。
スター・ウォーズ Ep.4の3幕ないし5幕構成シナリオは、いまやあらゆるエンタメ映画で使われるスタンダードだ。繰り返しになるが、そんな教科書的なプロット構成を繰り返したとて、結局はEp.7のような、英雄譚の再生産にとどまってしまうかもしれない。それならば、物語構造をそぎ落としても、スター・ウォーズの遊園地としての楽しさにフォーカスする。制作陣はそう判断したのかと思う(単にグローグーのパペット演出を尺取って見せつけたかったのかもしれないが)。
私にとって本作は、旧き良きSFの楽しさ、面白さの詰まった傑作だった。ルーカスの思想をもっとも忠実に受け継いだ、稀有なスピンオフ。それが、『マンダロリアン&グローグー』だ。