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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

もうすぐ無くなる下高井戸のラーメン屋

高井戸駅の数の踏切の前にあるラーメン屋に時々足を運ぶ。行きつけというわけでもないのだが、時々、ふと思い出したように食べに行く。

 

当初はよくある、「こだわりの鶏だし」だの「追いレモンで味変を楽しめ」だの能書きの多いラーメン屋だったが、パンデミックになったあたりでそんな能書きは擦れてなくなり、京王線の高架化工事で店のある駅前市場一帯が完全に潰されると決まってからは、ちょっと廃頽的といってもいい雰囲気を醸し出すようになった。いつのまにやら店長も変わり、いまは若いねーちゃんがワンオペで洋楽を流しながら店を切り盛りしている。

 

調理過程もずいぶん簡略化されたのか、いまこの店の長所は、とにかくラーメンが早く出てくることだ。食券を出して席に着き、セルフの水を汲んで飲もうとすると、もう特製全盛りラーメンが出てくる。ついでに注文したレモンサワーも出てくる。ねーちゃん店主はタラっとした感じで調理をしてるのだが、なんなんだろうこの速さは。

 

で、その店主が常連らしいおっさんたちとする下らない話を聞きながら、麺をすする。近隣ではそれなりに好かれているようで、会話を楽しんでる客はけっこう多い。店主はそれなりに忙しいはずなのに、そう見えない。市場の取り壊しで店の終わりが見えたいまのタイミングが作った雰囲気なのだろうか。力の抜けた女性ワンオペのラーメン屋。あまりない店だと思う。

 

特製ラーメンは具が多く、麺は少ない。のびて上等という気持ちで、タラタラと食べていく。こってりスープの絡んだたっぷりの具は、レモンサワーで流しこみながら食べるのがちょうどいい。

 

この雰囲気がいいのに、そういうものに限って、長続きしないものだ。もうすぐ無くなるからと言って、今まで以上に足繫く通うと言うこともないだろう。ただ、ある日行ってみると、終わっているのだろうな。

 

 

店を出ると、いつもちょっとした賭けをする。目の前の京王線開かずの踏切を待つのが早いのか、それとも駅の跨線橋を渡るのが早いかだ。いつも踏切に賭けて、結局数本車両が通ったところで諦めてとぼとぼと跨線橋に向かう。そんな習慣も、高架になれば終わる。惜しいとは思わないが、なんとなく記憶しておきたくて、ここに書いておく。

 

映画:コンクリート・ユートピア - 崩壊後のソウルに、なぜ日本語が聞こえたのか

『コンクリートユートピア』は、ソウルを舞台にしたディザスター映画、より正確には「ディザスター後」を描く映画だ。この映画は、『マッドマックス:怒りのデスロード』の前日譚ではないか? 映画を観ながらそんなことを思っていた。

 

ディストピアへの道

突如起こった天災で都市機能が完全に崩壊。そんななか1棟だけ残った高層アパートの住人たちが、自分たちの生活を維持するために必死の努力を始める。その果てに何があるのかを描き出すのが、この映画だ。彼らはリーダーを決め、統率を取り、食料の確保と配分の仕組みを整える。自分たちの生存を脅かす外部の人間から身を守り、社会を乱す裏切者を排除していく……。

 

結果的に彼らが推し進めたことは、非人道的な方法論も許容する秩序の構築、外的への憎悪、リーダーの絶対的な崇拝、恐怖による支配だ。それって要は、『マッドマックス』のポスト・アポカリプス社会じゃないか。アパートのリーダーを演じるイ・ビョンホンの歪んだ笑顔は、イモータン・ジョーに通じる。

 

しかしこの映画のテーマは、それが特異な統率者によってなされるのではなく、普通の人々の、消極的な善意によって作られてしまうという恐怖だ。いわゆる「凡庸な悪」が社会を包み込んでいく様を描いている。映画にはマックスもフュリオサも登場しない。ただ、ささやかな抵抗を試みた僅かな人々がすり潰され、最後には何もかもが崩壊する様を描く。

 

映画としての問題は、この崩壊の行程がまさに凡庸であったことだ。アパートの住民がなす悪は、ああ、こういう状況ならこうなるよね、というモノが多く、物語としての飛躍がない。また、イ・ビョンホンの正体についても、リアルな社会問題に根付いたものである分、ミステリーとしてのスリリングさを欠いているところがある。

 

巨大な災害の中で立ち上がる状況を、アパート1棟のミクロな環境に落とし込んで描く方法論は面白いし、そのディティールには目を見張るものがある。ただ、リアルであるがゆえ、ストーリーがいまいち平凡に感じられてしまうのだ。

 

なぜ日本語が?

さて、この映画の中盤で、唐突に日本語が聞こえてくるシーンがある。アパートのある部屋に住む寝たきりの老婆の台詞だ。不明瞭な台詞で、私も「あれ、これ日本語かな?」と思った程度だったが、終盤再び老婆が現れる混乱したシーンで、唐突に「だれか日本語わかるか?」という字幕が乗っていたことから確信を得た。群衆の声が飛び交うシーンで、わざわざその台詞を訳出したということは、翻訳者もその台詞に意味があると考えたのだと思う。

 

物語上で明らかになるが、この老婆の息子は、詐欺的なビジネスに加担しているという設定になっている。これは何を表現しているのか? 

 

ここでふと、うすら寒い記憶がよみがえった。学生の頃(20年以上前だ)ソウルに数か月滞在していて、現地の人たちとの会話から思いがけず知ったことだが、一部の韓国人には、韓国にやってくる在日韓国人は何か怪しげな商売をやっている、というステレオタイプ的な見方があるようなのだ。

 

すると、映画に出てきた老婆は韓国に戻ってきた在日1世か2世で、その息子は悪事に手を染めていた、ということなんだろう。

 

移住で地縁・血縁の薄れた在日の人たちが、再移民先の韓国で身を立てるために現地で”普通の仕事”(大企業勤めとか、公務員とか、信用必須の個人事業とか)以外の事業をせざるを得ない状況は当然あるだろう。これは日韓にかかわらずあらゆる移民社会で起こる二重差別の構造なのだけど、そんなものが2020年代の映画にポンと出てきて、それに気づいた時には少々面食らったし、安易ではないかとも思った。

 

一方で、映画の言わんとしているところもわかる。現代韓国の高層アパートとは、古くからの地縁血縁に強く依存した社会ではなく、多様な者を内包した共同体であるということを、この映画は在日の老婆に託して語っているのだろう。映画ではこのほかにも方言の強いキャラがいたりして、団地住人の多様性への目くばせがある。

 

つまるところ、この在日の老婆は、本来的な意味で高層アパートが実現すべきだった「ユートピア」の欠片なのだ。社会的な因習から人々を解放し、様々な人々を許容して内包するひとつの共同体。ただし、そこに住む資格さえ得られれば。

 

韓国社会の抱える様々な矛盾と課題を、この映画は災害に託して暴き立てる。韓国映画って本当にこういうのが上手いと思う。

 

ディザスター映画としてみると今一歩ハマり切れなかった本作だが、ディティールをひとつひとつ読み込んでいくと、そこに描かれる多層的なメッセージには目を見張るものがある。この映画は、巨大な災害や戦争による社会変容と隣り合わせとなってしまった21世紀の社会で、エンタメとして消化するのではなく、モラルの糧として胸にしまっておくべき作品ではないのかと思った。我々は、こうはなるまい、と。

なぜ彼らはこうも明るいのか - スター・トレック:ストレンジ・ニュー・ワールド 1-1話

彼らは明るい。『スター・トレック:ストレンンジ・ニュー・ワールド』のプレミアエピソードを観ての第一印象だ。新生エンタープライズの乗組員たち――設定的には、初代『宇宙大作戦』のエンタープライズの前任クルー――は、みな明るく、笑顔を絶やさない。もちろんパイク船長やラアンのような暗い過去を追ったキャラもいるが、それでも皆自信に満ち溢れ、まっすぐ前を向いているように見える。

 

ストレンジ・ニュー・ワールド ブリッジクルー

そもそも、1966年に放送が始まった最初のスタートレック、『宇宙大作戦』は、牧歌的な未来像が背景にあった。古典的なスペースオペラ小説の流れを汲み、科学への信頼とともに「カウボーイ的な正義」への信頼が厚かった時代のSFテレビシリーズだ。国家間の争いも貧富の差も人種差別もない、理想的な未来の地球で生まれ育った人々が、宇宙のフロンティアを探検し、自分たちの正義をよりどころに問題を解決していく。

 

だが、時を経てそのような未来描写は、現実にそぐわないものとなっていった。80年代末から放送された『スター・トレック:ザ・ネクストジェネレーション(新スタートレック)』では、60年代のカーク船長のアンチテーゼのように、ピカード艦長が直面する多様な星間外交、政治、倫理問題に思い悩み、眉間にしわを寄せる。複雑な問題を、単純に解決することはできないのだ、というのが通底する価値観だ。その流れを更に継いで、『スター・トレック:ディープ・スペース・ナイン』では、シリーズ後半に巨大な星間戦争が勃発し、極限状態での倫理の崩壊が描かれていく。*1

 

そうやって、時代と共に価値観を変化させていったスター・トレックが、50余年の時を経ていま再び、最初の『宇宙大作戦』の直前の世界を描く。とすると、作品世界的には、登場人物は旧作と同じく牧歌的な価値観を持った人々でなければならない。しかしそんなキャラクターは、"いま"の時代にアリなのだろうか? この閉塞感あふれる時代に、なぜ彼らは、自信に満ち溢れ、牧歌的でいられるのか?

 

実はそれこそが、本作第1話の「SF的な価値観の転換」だ。

 

物語では、1世紀に渡って内戦状態にある惑星に囚われてしまったエンタープライズの元乗組員を救出するため、パイク船長らが惑星に降下する。そこで、一触即発の危機にある惑星の市民らに、彼は語りかける。地球人が、こうやって異星人と共に宇宙を自由に飛び回るまでに体験した戦争の歴史を。

 

スター・トレックの長大な物語の中で断片的に描かれてきた、21世紀に起こった優性戦争、第三次大戦といった架空の歴史が、現実の21世紀……米国での(また世界中の)社会分断による対立という状況に直接結びつけられ、いまある惑星連邦と地球の文明は、分断が生み出した第三次大戦からの復興を経て、ようやくもたらされたものだと、明確に語られる。*2

 

そこで気づくのだ。彼らの明るさの根拠を。ストレンジ・ニュー・ワールドに登場する人々、そして宇宙大作戦に登場していた人々は、最悪の歴史を乗り越え、それを繰り返すまいと誓っているからこそ、まっすぐ前を向き、自身に満ちた顔をしているのだ。彼らは種族として、明るくいなければならないのだ。

 

彼らの笑顔は、本作のストーリーの一部、テーマそのものだ。

 

このSFエピソードで視聴者が置くべき視点は、実はエンタープライズ=人類側でなく、彼らの訪問先の未開の異星人にある。物語は訴えかける。いま、このままの社会分断が進めば、スタートレックの人類のように、最悪の事態が待っている。大戦争を経験せず、豊かで明るい未来を作り上げるには、どうすべきなのか。

 

シンプルなメッセージだ。しかし、だからこそ新生スター・トレックの第1話にふさわしい。

 

スター・トレックは、常に人類のあるべき姿を描いてきた。『宇宙大作戦』では牧歌的な未来像を、『新スター・トレック』では物事を単純化せず多様性を受け容れるべき道筋を、直近の『スター・トレックディスカバリー』では、分断された世界で多様性を内面化した人々の力強い団結を。*3

 

そして『ストレンジ・ニュー・ワールド』では、人々が最悪を乗り越えて勝ち取るべき、ごく基本的な、「明るい未来」の姿を示す。分断の時代、不透明な時代にこそ描かれるべき未来。それが、パイク船長たちのエンタープライズだ。

*1:テクニカルには、競合番組である『バビロン5』が星間戦争ネタで成功していたという背景がある

*2:更に言えば、その後の架空史ではジンディやクジン、ロミュラン、クリンゴン等の異星人との大戦争もあったことになっている

*3:スター・トレックのオマージュ作品である『宇宙探査艦オーヴィル』は、実はディスカバリーやストレンジ・ニュー・ワールドの裏返しだ。作品の第3シーズンでは、新スタートレックで示された多様性に満ちた社会が30年経って実現するどころか崩壊しかけている現状に対し、ストレートに怒りをぶつけている。