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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

土臭いラーメンを食べた話。

 

電車内で某Webメディアの食レポ記事を読んで、ラーメンの口になった。午前11時。午後は忙しいし、ちょっと早めにランチにしようと思って、某駅のGoogleで評価が4.1のラーメン屋に入った。横浜家系。これがいけなかったわけ。

 

まず扉を開けて、ウっと唸ってしまった。豚骨の臭さに加え、古い商店街特有の下水のにおい。

 

いやー豚骨はなー。においが出るのは仕方ない。仕方ないんだけど、うまく処理してほしいなあ。いや時間帯早いのもいけんかったかなあ。まだ客の出入りがないからキッチンの嫌なにおいがダイレクトで飛び込んでくるんだ。あと下水臭さはいかんともしがたい。街ごと壊して配管やり直すしかない。人が入って良いにおいが充満した環境では薄らぐんだけど。

 

で、食券で普通のラーメンにネギトッピングを選んでカウンターで出すと、不愛想な店員さんが「どうします?」と訊いてくる。えーと?

 

すんません何て……と訊きかえすと、店の壁を指さされた。確かにクッソでっかく、麺の硬さやスープの濃さを選べると書いてある。カウンターにも貼ってある。観察力かー。よく見にゃあかんなあ。私そんなによくラーメン屋行くわけじゃないから、プロトコルに慣れてないのよ。

 

麺硬めを選ぶと、ほどなくしてラーメンが出てきた。スープを少しすすり、ネギをかき分けほうれん草のからまった麺をすする。と、口内ガツッと広がる土の味! うわー! ほうれん草!

 

いや、きょうび土の味のするほうれん草を食べられること自体、珍しいと言える。昔はこの土臭さこそほうれん草のアイデンティティだったもん。でもまあいま麺をすすって、そのファーストアタックが土の味は、ちょっと不意打ちすぎるんですよね……。

 

あとトッピングの白髪ねぎ。水につかってなくて、さっきまで八百屋に並んでたようなカサついたジャキジャキ感。これも時間帯が早かったのがまずかったですかね。もっとジューシーにシャキシャキ味わいたかったんだけどなー。

 

いやー久々に記憶に残る、店との不幸な出会いをしてしまった。それでもスープは最後まで飲みたくなったんだから、さすが横浜家系と言うかなんというか。

 

不愛想な店員さん、最後はこちらの目を見て「またいらしてください」と言ってくれたので、まあ機会があれば夜にも行ってみようと思う。時間が違えば味も違うはずだから。

 

 

マンダロリアン&グローグー:面白さはどこにあるか、という話

アメリカの偉大なSF作家、ラリー・ニーヴンは言った。SF小説とは、遊園地の遊具であると*1。作家の創造した世界・宇宙は巨大な遊園地であり、その中にどんな遊具=作品を置いて読者を遊ばせるか、そして、遊園地の楽しさに目を向かせるか。それが、SF、特にスペースオペラと呼ばれるジャンルの肝であるわけだ。

 

いま、それに最も成功しているのは、映像作品であるスター・ウォーズシリーズなのだと思う。

 

意外と低かった、米国での評価

『マンダロリアン&グローグー』の公開前、米国のエンタメ系メディアに出回った批評家による試写評は、少々不安を抱かせるものだった。短く要約するなら、「物語が小ぢんまりしていて、スター・ウォーズらしくない」というものだ。公開直後、イデオロギー的な批判をするSWファンダムではなく、良心的なSWファンからも似た声が聞こえたのが気になる。

 

果たして、実際観てみると――私は大絶賛だったわけだけど――確かにそういう批評もわかる。わかるのだ。

 

これは、単に作品がTVシリーズ的すぎるというだけではなく、エンタメ映画としての構造的な問題だ。

 

どこに問題があったのか? いろんな角度から論じることができると思うけど、ひとつ取り上げるのなら、悪役の造形だ。

 

足りなかったもの

新共和国のガバメント・コントラクターとして働く賞金稼ぎのディン・ジャリン(マンドー)は、弟子に取ったフォース感応者グローグーとともに、悪の帝国残党を追う。その中で、残党の情報を持つマフィア、双子のハットからの要請に応えることになるが――というのが今回のお話。で、この双子のハットが最終的な悪役となる。

 

問題はこのハットの「悪の動機」が浅いことだ。双子は自分たちの地位のためジャバの息子ロッタを捉えて拷問したいという単純な動機、内論で動いている。しかし、ロッタを捕らえることで双子が成しうる「一段上の悪」、マンドーに倫理的な葛藤を突き付ける悪の提示が無かった。ゆえに、古くからの言い方でいえば、第3幕がなかった。

 

持ち前の責任感で動いていたマンドーが、今まで認識していなかった真の悪を知り、それを乗り越えることで、マンドーのキャラクターとしての成長が完成される。一般的なエンタメ映画では、それは必須といえる構造だ。本作で言われる「スケールが小さい」という批判は別に銀河の危機だとか派手な艦隊戦が無いことではなく、そういう物語のスケール感のことだろう。

 

足りないままでいい、とも言い切れない

そんな映画の教科書的なストーリーデベロップメントは、『マンダロリアン』には必要ないのか? いや、そんなことはない。現にTVシリーズの3シーズンを貫いていたのは、その構造だ。

 

マンドーがグローグーを親元に届けるというミッションを遂行する中で、ミディ・クロリアン値の高いグローグーの体を使って最強のクローン(暗示されるのはEp.9のクローン皇帝の母体)を作りだそうという帝国残党の真の野望をが明らかになる。それゆえに彼の義侠心は正当化され、ついには新共和国の味方に成ったのだ。

 

しかし、映画ではその構造は取られなかった。TV作品でマンドーが既に正義=共和国の味方として成長してしまい、構造的にできなかったのかもしれない。一方で、敢えてやらなかったとも言えるだろう。映画の教科書に則りプロットを濃密化させるより、もっと描くべき事がある、そう判断したのではないか?

 

プロットを削ってでも描くべき事、それはグローグーの冒険と成長、そしてスター・ウォーズ宇宙の広さだ。

 

劇場版マンダロリアンの面白さ

『マンダロリアン&グローグー』の面白さの核心は、表現される宇宙そのものにある。氷の惑星から亜熱帯の基地、湿地帯の惑星、そしてサイバーパンクな廃頽都市へ。007よろしく次々と移り変わる舞台には、多様なガジェット、ドロイド、クリーチャーたちが、みっしりと埋め込まれている。IMAX仕様で天地が広くなったぶん、その密度はTVシリーズより更に濃密だ。

 

そして全体の1/4を使って描かれる、グローグーの生態。タイトルが示す通り、今作はグローグーも主役なのだ。今までマスコット的だった彼が、マンドーを失い、本格的に自分の意志で何かをなす、その様子が描かれる。同時に、ヨーダの種族としてのグローグーの生態も、執拗なまでに描かれる。グローグーを主体としたパペット演出は、デイブ・フィローニがかかりっきりで作ったという。映画史的な意味でも、その手法をきちんと残し、作りこむことが重要と判断したのかもしれない。

 

 

本作の面白さ、それは皮肉でもなんでもなく、ディズニーランドの面白さに似ている。単に遊園地のアトラクションがあるのではない。それぞれに濃密なバックグラウンドとなるストーリーがあり、目を奪われる美しい造形がある。その中を歩き回るだけで、楽しさが伝わっててくる。

 

それこそが、映像作品としてのスペースオペラであるスター・ウォーズの面白さの本質ではないか。

 

考えてみれば、シンプルな「英雄の旅路」型の物語を、濃密なSFガジェット&クリーチャーで味付けをして『スター・ウォーズ』という傑作に仕立て上げたのは、ジョージ・ルーカスその人であった。

 

スター・ウォーズ Ep.4の3幕ないし5幕構成シナリオは、いまやあらゆるエンタメ映画で使われるスタンダードだ。繰り返しになるが、そんな教科書的なプロット構成を繰り返したとて、結局はEp.7のような、英雄譚の再生産にとどまってしまうかもしれない。それならば、物語構造をそぎ落としても、スター・ウォーズの遊園地としての楽しさにフォーカスする。制作陣はそう判断したのかと思う(単にグローグーのパペット演出を尺取って見せつけたかったのかもしれないが)。

 

私にとって本作は、旧き良きSFの楽しさ、面白さの詰まった傑作だった。ルーカスの思想をもっとも忠実に受け継いだ、稀有なスピンオフ。それが、『マンダロリアン&グローグー』だ。

*1:あんまりしっかりソースを当たったわけじゃないから、似たようなことを言った人はもっと前にもいたかも

機動警察パトレイバーEZY:1話完結の良さを現代に、という話

これはエピソードをもっと観たいな。観るべきだ、というのが、観終わっての感想だった。

 

機動警察パトレイバーEZY、80年代に始まったパトレイバーシリーズの最新復活作。自分にとってはコミック版がファーストコンタクトで、ゆうきまさみ氏のストーリーテリングに完全にやられた作品であった。そこからOVAシリーズ、映画版、TVシリーズと追い続け、サンデーっ子だった自分の青春として生きている。

 

それから幾星霜、復活の話が出てから随分経ってようやくリリースとなった本作。不安がなかったわけではないけど、実際劇場まで足を運んでしまって、その絵、その語りを体験すれば、なるほど、やる意味のある作品なのだなとわかる。

 

そこには多分の懐古もあった。それゆえのとっつきにくさもあった。しかしそのうえでも、1エピソードごと独立して完結するTVシリーズのフォーマットの良さを想い起すことができた。

 

配信ドラマ全盛の世の中になって、日本のドラマも、米国のドラマも、そのフォーマットは大きく変わった。米国のドラマは、予算と品質の都合等で作品ごとの話数は24話ではなく12話以下のショートシリーズ、1話完結でなく一気見前提のストーリーアーク型(1本の映画を数話に分割したような形式)が当たり前となってしまった。日本のアニメやドラマには疎いけど、その傾向は似たりよったりだろう。

 

パトレイバーEZYは、そんな時代にあって、本来のTVシリーズの面白みを思い出させてくれた。ぶっちゃけて言えば、全部の話が一見して面白いわけじゃあない。それぞれ特長があって、それぞれのエピソードであーだこーだ、あれがいいこれが悪いと言える楽しみだ。

 

本作でいえば、第2話だ。EZYは旧作のように主人公の組織が立ち上がるところから始まるのではなく、すでに出来上がった状態でいきなり物語を始めるため、当然ながら説明不足の部分がある。それを解消するために、2話では個々のキャラクターの紹介も兼ねて、ちょっと技巧的に凝ったシナリオを持ってきたのではと思う。

 

その結果は、いやーどうなんですかね? ファンサービスで劇場版のレイバーを出すというネタに引っ張られた感もあるけど、やはり各キャラクターの独白に近い”妄想”という表現よりも、ストレートにキャラ同士の掛け合いがあるエピソードにしたほうが、わかったんじゃないかと思うんですけどね。

 

ただ、こんな感想も、別の人の感想を聞けば、全然違う長所や技巧的な面白さが発見できるかもしれない。もう一度観返したいと思えるかもしれない。第1話も、第3話もだ。

 

それが、1話完結の面白さだ。長年ファンをやってる新スター・トレックやLaw&Orderシリーズで強く感じていた面白み。おなじ作品世界でありながら、個々の脚本や演出のディティールを見て、次々と語りあうことのできる面白さ。

 

こういう面白みが復活すればいいのに。そんなことを見終わって強く思った。パトレイバーEZYは3回のイベント上映で、全8話構成だそうだ。初期OVAシリーズよりは話数が多いが、この物語、この世界の「良さ」は、話数を重ねれば重ねるほど醸し出されてくるはずだ。もっと観たい。そう思える最初の3話だった。

 

余談:ぶつくさ

前述のように、今回は最初から主人公のチーム、第二小隊がワークしているという前提で物語が始まるのだけど、キャラにエキセントリックな設定がないぶん、おとなしすぎてキャラがつかみづらいのはいかんともしがたい。じゃあかといって社長の息子だの発砲マニアだのを今の時代に出せばよかったかというと、あの完成された、30年後という世界観には合わないし……。難しいねえ。

 

そういう意味で、演技も結構難しいラインだったんじゃないかと思う。特に主人公は明るく派手に叫ぶ演技が多かったが、それがあの妙に老成した(そりゃ老成してるよな)世界観からちょっと浮ついてるようにも感じた。しかし、これも話数を重ねることでケミストリーが生まれ、演技と世界観がフィットしてくるはずなのだ。そういう意味でも話数を続けてほしい。2話で垣間見た課長と第一小隊隊長との掛け合いとか、ぜったい面白くなりそうだもん。

 

余談2:第3話

第3話は、漫画版のエピソードを下敷きに某作家が好き放題肉付けした作品になってる。ほんと好きにやりやがって。東地キャラ(スパドラ後期を生きた海外ドラマファンは東地宏樹と甲斐田裕子の声は寝ててもわかる)の楽しげな演技もみられて楽しかった。

 

ただ、キャラの絵がゆうきまさみ作品にいちばん寄せられてるんだから、もっとコミック版のテイストに近いやつで観たかったよねえ! あの独特の抑制的な外連味と言いますか。そういうエピソード、来るかしら? 宇宙開発と労働争議のエピとか。

 

余談3:イングラムのデザイン

主役機イングラムデザインは旧シリーズとほぼ変わっていないのだが、あの時代のロボットにありがちな「太くて長い脛」デザインに新しい面白みを感じた。

 

脛を長く描くのは、巨大感を演出するための昔からの技法なのだと思う。ところが今作では、それが標準の人型体形から離れた、人型重機特有の低重心機構であるように見え、そこにリアリティを感じてしまった。

 

それはCG作画になって今までにないアングルからの挙動が見れたことと、この数年で等身大ロボットが普及し「本物」の解が得られたからこその感覚なのだと思う。

 

そういえば漫画版1話でイングラムと同じバランサーを搭載していると語られた4脚レイバーも、ふっとい脛だったなあ。なるほど当時からそういう意図だったのかも。