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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

この世界の片隅に - 泣けなかったぶん、何かを得たというはなし

泣けなかったのだ。映画が悪いんじゃない。たまたま自分のメンタルが凄まじく低調で、感情が希薄になるレベルにまで落ちていたのだ。まあそれが持ち直してきたのでこれを書いてるんだけど、その時は映画を最後まで冷静に観て、なぜこの映画は人を感動させるんだろうなんてことをていた。一方で、情動がない分、こまやかにに表現された世界に対するロジカルな理解というか、納得感を得た。

 

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巨大な戦争の中で続いていく、ちいさな暮らしを描写したこの作品に、ハリウッド映画のような分かりやすい物語の構造は見えづらい。けれど分解してみれば、きちんと物語の軸がある。

戦争という状況を抜いてしまえば、これはシンプルなメロドラマだ。流されて嫁いだ主人公すずが、自分の生活を作り、愛に確信を得ていく物語。結末で、その愛が運命であることが語られる(ここだけファンタジーになるのが巧い)。あとで原作を読んだけれど、そちらではメロドラマとしての性格がより色濃く出ている。

一方、戦争という状況との対峙も、ひとつの物語だ。深刻化していく戦争は、そのまま映画の時間軸での盛り上がりと一致する。その戦争をどう乗り越えていくかの物語。そして終戦とともに迸る感情で、それが悲劇であったことが明確になり、エピローグ的に、再生してく日常を希望ととらえ、映画は終わる。

 

ふたつの物語いずれも、すずが、流されるままの日常から脱し、自分の意思で物事を決める=自分の人生を自分で得るポイントがある。そこが物語の重心だ。

メロドラマとしては、すずがあこがれ人に、自分の意思で愛する相手を示す場面がある。それ以降、夫婦は対等に愛を確認していく。

戦争劇としては、後半の大きな喪失から続く、家に落ちた焼夷弾と向き合うシーン。ここに、すずの「暴力と戦う」という明確な意思が込められていると思う。けれどもそれは遅すぎて、結局ままならないままの悲劇となる。

 

こまやかに紡がれる、日常の小さなエピソードの連続は、大きな2つの物語を支え、動かす。愛の物語では、すずの愛を深めていく導線として。戦争の物語では、立ちふさがる暴力に抗うための、潜在的な武器として。

愛の物語、戦争の悲劇、そして連続する小さな日常の物語。人はそのどれに感動したのだろうか? 恐らく3つが渾然一体となって心に注ぎ込み、より大きな涙を作り出したんだろう。そんなことを、周りの鼻をすする音を聞きながら思っていた。

 

そしてもうひとつ、心から感情が抜けていたぶん、理性的に納得できたものもあった。それこそ、この映画でもっとも注力された、連続する小さな物語の風景と、すずの視線だ。

それは、自分の祖母たちから聞いていた戦時中のはなしとぴたりと一致する。

米軍機の機銃掃射にさらされ田んぼに逃げ込んだはなし。街場に落ちる焼夷弾を、避難先の女学校から眺めて「綺麗だ」と思ったはなし。畑から扱いできた大根を持っていると、どこから来たのか汚い身なりの子連れの女に、一本分けてくれないかと言われたはなし。

なるほど、という納得感がある。

祖母たちの見ていた世界とは、こうだったのか。祖母たちが覚えた感覚は、こういうものだったのか。70年前の思い出話が、映画の情景と重なり、その世界は本当にあったものなんだと納得できる。

フィクションの物語だけれど、描かれる世界の感触は、随筆のようだ。なんというか、「春はあけぼの」の一文を読み、ああ、確かに春はあけぼのなんだなあ、と思う納得感。それに近い。うまく言い当てられているだろうか?

 

戦争を知る祖母たちが消えていき、戦争が思い出の思い出になってしまうギリギリ直前で、この映画ができたのは、幸運なことだったのだろうなあと思う。よい映画だった。

 

余談その1

この映画を観て、「あの戦争がなければ、日本はどんなに豊かだったろう」という感想を見るにつけ、違和感を覚える。終戦を迎え、そこにはためく太極旗の短いカットと、それに続くセリフは、すずが暴力から守ろうとしていた世界が、実は外地からの搾取という暴力の上に成り立っていたということを知り、足元の世界が崩れ去る重要な瞬間だ。

戦争が無ければ、帝国という搾取の構造の上に成り立った「豊かな世界」は続いただろう。その暴力に気付かせるために、あの場面あったのではないのか?

 

余談その2

ふと思った。この映画、意外と劇場版『機動戦士ガンダム I, II, II』を観たときの感覚に似ている。あの映画もひとつの船に乗り合わせた人々の体験した(架空の)戦争の総集編で、団子状にエピソードが連なり、そこに生きる人々のこまやかな会話、ままならない雰囲気が物語の端々に描かれている。逆説的だけれど、富野由悠季は親たちの戦争の手触りを知り、よく分析して、それを反映していたから、結果的に似ていると感じたんじゃなかろうか。

徒然と書いてしまうが、『機動戦士ガンダムII』のベルファスト戦は、ずいぶん後に観たベルファストアイルランド独立闘争の映画『ベルファスト71』の雰囲気に驚くほど似ていて驚いたことがある。あの寒々とした空気感、少し間延びした砲火の音、その下を走る人間。報道の向こうの71年闘争を、富野がどれだけ注意深く観て、読み、その感覚を消化していたかがよく分かる。

すっかり違う作家の話になってしまった。