父方の祖母が四十九日を迎え、長い読経のあと無事に墓に入った。墓の中には曽祖父母と祖父母の4つのお骨。
祖母は女学校を出たあと小学校の教師となり、おなじく教師だった祖父と結ばれ、出産後も共働きをし、20年前に定年を迎えた。戦前生まれで共働きをしていたのだから、曽祖父母も比較的寛容というか、ラディカルなひとだったんだろう。曽祖父はけっこう勝手な人だったようだが、その埋め合わせとして、子供夫婦にも自由を許したのかもしれない。
とりとめもなく書くが、地元の街は大きな川が流れていて、そこに流れ込む細い谷川がいくつもある。曾祖父はその谷のひとつにある集落の出だった。彼は字が綺麗に書けたので、当時の隣村の役場の書記として雇われていた(当時は文字通り、字を書く人だったわけだ)。ところが勝手なので、二二六事件が起こると「東京で大変なことが起こったので働く気になれん」と帰ってきたし、戦争が終わると「負けたから仕事をやめる」と引退してしまった。そのせいで祖父は苦労したようだ。
いっぽう祖母は、大きな川沿いの、川宿の子だった。上流で採れた材木を丸太船にして下流に流し、宿のあたりの木場で商人が値をつけ、引き上げて加工する。その丸太を流す人と、商人たちが泊る宿だ。
父の子供のころには宿を廃業して、宿部屋をお針子の作業室に変え、繊維業をやっていたらしい。父は遊びに行くたび、階段がふたつもあり部屋も多いその家を不思議に思っていたそうだ。
祖母に話をもどすと、彼女は教師だけあって合理的な人だったから、病気をしたあと施設に入ることにも抵抗はなかったし、むしろがらんとした家よりも手ごろな部屋と話し相手に囲まれた施設のほうが幸せそうだった。父が維持に負担のかかる谷奥の墓をたたみ、永代供養としようかと持ち掛けたときも、むしろ賛成していた。まあ父方の家の墓に入る義理もないと感じていたのかもしれない。
父が永代供養の場所を探しているうちに、老人女性に多いという心筋梗塞だかをおこし、そのあとはあっというまに弱って死んでしまった。最期の言葉は「もうおしまい!」だったそうだ。けっきょく、父方の墓に入ることになった。
寺と墓は、谷のいちばん奥にある。天台宗だ。寺じたいは700年の歴史があるらしい。近世になってこのあたりに新しく広まった曹洞宗とちがい、まあ旧教にあたる宗門なので、一時は僧兵もいるほどの寺で、その僧兵たちの風呂の遺構も、最近まで残っていたという。寺の梁には兎の彫刻があるが、その由来は和尚もしらないそうだ。
寺は明治維新後の宗教改革で檀家をとるようになったのだが、その頃から数えて三代目になる和尚も70を超えたようだ。谷の人口も減り続けているし、比叡山はここに後継の僧侶を送り込むのも難しいだろう。次に大きな地震がくれば、寺じたいも持たないかもしれない。墓地は数十年のうちに無くなるのではと思っている。次こそ永代供養なり散骨なりを考えなければならない。
寺に向かうため、隣の谷から細い山道を通っていく。子供のころは、谷の両側に小さいがきれいな茶畑があった。それも今は耕作放棄され、茶の木は人の背ほどの高さにぼうぼうと茂っている。原初の茶の姿に戻りつつあるわけだ。茶どころのこのあたりでは、そんな土地が無数に見える。隣の市の耕作放棄地は20ha以上で、そのほとんどが山間の茶畑だ。もはや森に還るだけだ。
新茶の季節になると、そのへんの人々(うちの母親を含む)は道沿いで野生に還った茶の木から新芽を摘んでくる。山菜の要領だ。それを炒って自家製の茶にして飲んだり、てんぷらにしたりして食べる。それもいい時代なのかもしれない。