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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

ゴジラSPは傑作だったか、或いはあと5分尺があればという話。

いや傑作だったと思いたいのよ。しかし、しかし! あの最終回である。あれを、作品としてどう消化すべきか。なんというか、『Gのレコンギスタ』のTVシリーズ最終回に似た隔靴掻痒の感がある。あと5分でも、あの状況を腑に落とすための台詞に充てる尺があれば、完全な充足感が得られたのだろうか?

そうなのかもしれないし、そういうものではない、もっと構造的な問題なのかもしれない。

 

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私は2000年代以降の日本SFよりも、80年代からの海外ハードSFを読んで人格形成した人間であるんだけど(ニーヴンに始まりイーガンに終わる、そんな感じ)、そのハードSFの手触りが、大好きな怪獣特撮のアニメシリーズ化という変化球のなかにガツンと感じられて、夢中になったわけだ。

あり得ない異常事態に、科学者が会話を重ねながら(時に体を張って)挑んでいく。科学雑誌に載っているレベルの物理学や天文学、数学を、ほんの少しだけいじって、劇中の科学者の目を通して見せることで、世界の思いがけないありようを描いて見せる。それがすごく「あの頃のハードSF」な感じでよかった。

物語はスピーディで、キャラクターもシンプルで良い。映像作品で、主役の背景や人間関係を限りなくそぎ落とした「事件が主役」なハードボイルド手法を取るのはスマートなやりかただし、むしろそのそぎ落とされたなかで、絵や声の微細な変化で彼らの人間面の変化を感じ取るというストイックな楽しみ方は、好きだ。アニメとして良くデザインされたキャラクターだったと思うし。

 

そしてなにより、SFは人間を描く。人類全体のありようを描く。現実に起こり得ない特異な状況を借りて、人間性とは何かを描く。それが本作では、全編を通して見られた。徐々に広がる終末、すぐ隣に死が漂い始めているのに、傍から見れば鈍感すぎなぐらい日常を続けて、記念撮影とかしちゃうあの人間のバカっぽさ。薄っぺらさ。それはまさに、パンデミックのいま自分たちがリアルで感じている人間の本質だ。そんなものが、本シリーズではエピソードの至るところに描かれていた。

しかし、だ。そうやって描かれたものを、最終回ではよりクリアで、鮮明なかたちにして見せるべきではなかったのか。別に『ゴジラVSビオランテ』の三枝美紀みたいなド直球なモノローグをさせろとは言わんが、あのAIたちの一種表面的なモノローグに終始せず、もっと具体的に見せ、語らせても良かったのではないか。視聴者に委ねずに、もっと分からせても良かったのではないか。

 


いや分かると言えばわかるのだ。理詰めの物語の最後の最後に、ちょっとした奇跡(奇跡ではなくこれも理詰めの末の飛躍ではあるんだが、結果奇跡に見える)が起こって、ドカンとオチがつくという作劇法も。設定としては、過去方向に無限の計算時間を与えられたマシンと、情報理論そのものの結晶のような物質がある世界であれば、最後の最後に「実体の拡張=巨大化」というのもできるんだろうな、と分かりはするんだが、でもやっぱり、語ってほしいじゃないか。

そして、そして。最終回、破局とは何で、その回避策とはどこにあるのかが分かった瞬間に、それが、「だから人とは、人が生きることとは、こういうものだったのだ」という人間性への新たな視点と結びついて欲しいのだ。それがSFの傑作の条件ではなかったのだろうか。『あなたの人生の物語』も、『超時空惑星カターン』も、それができていたから感動したのではなかろうか。

そこが、『ゴジラSP』最終回では足りなかった。キャラクターをそぎ落とされた科学者の主役ふたりであっても、いや、だからこそ、最後に人間として何を理解し、想い、出会って語り合ったのか、そこを明示しなければ、物語にオチがついたとは思えない。あのAIのモノローグだけでは、迂遠で抽象的すぎる。「事件が主役」の主役である超理論も、単なる物語の謎解きアイテムになってしまう。

 

いや、わかりますよ。迂遠で抽象的で、その答えは視聴者のそれぞれの心で見つけてほしいというのも。いや、ひょっとしたら制作側の意図は、そんなテーマなんぞ見つけひんでもプロセスが楽しかったらええがな、ということなのかもしれない。

でも、まあね。最終回直前まで、これは綺麗に物語がたたまれるぞ、という予感があっただけに、あと5分、きちんとオチをつけてほしかったわけですよ。

 

そういうささやかな、欲求不満の吐露でした。3か月間本当に面白かったのよ、楽しかったのよ、ゴジラ シンギュラポイント。