farsite / 圏外日誌

Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『ゴジラ -1.0』 - 最後の国産大衆映画 その課題

観終わって最初に思い浮かんだのは、意外とコンパクトに収まったな、という妙な腹落ち感だった。『ゴジラ -1.0』はそのタイトルが示唆するように、戦後の荒野を背景として人々を更に徹底的に叩きのめす、深く昏い怪獣映画になるのではなかろうかと、ほんの少しだけ想像していたのだ。が、この作品は物語として手堅く展開し、ほとんど予定調和に近いエンディングを迎える。「戦後」というものが内包する無尽蔵の物語性を思えば、この怪獣映画がもたらす結末は、ある種控えめさすら感じさせるものだ。

 

シン・ゴジラの轍を踏まない

大戸島のゴジラ

前作『シン・ゴジラ』は、庵野秀明の個人的なビジョンが強く反映された映画で、彼と同じ完成を持つ観客に特に響いた作品だった。その特異性と徹底した内容が功を奏し、かつ「震災」という2010年代の日本人が共有する文脈のおかげで、より多くの観客に受け入れられるヒット作となったのだけれど、映画としてはオフビートであることには変わりない(それは他のゴジラ映画も同じだ)。特撮ファン以外の客層からは、ドラマの単調さやキャラクターへの共感の欠如といった批判も少なくなかった。特に海外では震災という文脈が通じず、それほど成功していない。

 

それ故か、東宝山崎貴監督は異なるアプローチを採用した。彼らは方向性を一新し、前作にないものを前面に出してきた。本作は「戦争を終わらせる」という、強くシンプルなテーマを中心に据え、太平洋戦争を生き延びた人々が、困難な過去からの解放と前進を求める姿を描いている。「怪獣映画」という特殊なジャンル映画でありながら、観客がストーリーの要点を素早くつかみ、スムーズに物語を追えるよう、脚本も演出も注意が払われている。

 

映画はNHK連続テレビ小説さながらの戦後の復興物語を主軸とし、テレビや邦画で見慣れた安心感のある演技、演出、美術がつけられている。役者たちは「俺たちの戦争は終わったのか」と、テーマをセリフとして直接説明する。こういった方法論は、海外の映画やドラマと比してとかくクオリティの高低で語られがちだが、そうは思わない。映像作品は各国100年の伝統のある文化なのだ。各国それぞれで作法や技術があり、また「作品の観方」も異なる。本作は日本的な映画の方法論に親しい最大多数の観客に対し、最適なアプローチが取られている。

 

加えて、特撮ファンへの人々への目くばせも忘れていない。監督固有のVFXのノウハウを注ぎ込んで作られた、その筋の人たちなら興奮間違いなしの怪獣と旧軍兵器のハイパーディティールがある。また「人を殺すゴジラ」を描きつつも、その表現はハリウッド映画同様配慮が行き届き、観客は過剰な不快感を覚えることなく楽しめる。

 

これは凄いことなのだと思う。山崎貴監督の強みとする部分をすべてまとめて、「キチっと耳を揃えてお出しした」という感じがする。物語は妙な方向に暴走することなく、落とすべきところにストンと落ちてまとまる。これはオフビートな怪獣映画とは一線を画す、2023年の日本映画業界ができうる最先端かつ最大の、大衆映画なのだ。

 

そして、私は怪獣ファンでもミリタリーマニアでもない普通の女性映画ファンが、「もう一度観に行こう」と言っているのを耳にしている。この映画は確かに、届いている。

 

 

だからこそ、だ。本作は、これでよかったのだろうかという思いが頭をもたげてくる。

 

いや良いか悪いかで言えば『ゴジラ対ヘドラ』も『ファイナルウォーズ』もエメリッヒ版もあるのだから何だって良いに決まっている。ゴジラは自由だ。しかし、2023年の国産大衆映画として、また『シン・ゴジラ』に次ぐ7年ぶりのゴジラとして、『ゴジラ -1.0』の解像度は、適切だったのだろうか?

 

私が問題に感じた部分は、おおきく2つある。

 

2023年に戦争を描くこと

ひとつめ。全編通して違和感を拭いきれなかったのが、本作の戦争・戦後への向き合い方だ。

 

エンターテイメント映画として、戦争、そして戦後という状況がある程度戯画的に描かれるのは致し方ない。とはいえ、いま21世紀を生きる我々にとって、この戦争の描かれ方はいささか安易すぎるのではないか?

 

主人公たちは政府に利用され、無意味な戦争を強制されてきたことに強い反発を持っている。今回はゴジラという”侵略者”に立ち向かうことで、真に価値ある戦い、平和を得るための戦いをしようと決意する。かつて自分たちと同じように無為に戦わされた兵器たちを従えて。

 

確かに、そこには明確な反戦のメッセージがある。我々は、その力をより正しいことのために使えるのだ。平和と善を、積極的に選択することができるのだ、と。

 

しかし、間違った戦争の代償行為として、ゴジラに「正しい戦争」を挑むという構図は、それもまた、肥大化した自我の発露ではないのか? かつて侵略の手先と使われた海軍の船たちが、今度は本当に善を為すために使われる。その迷いのないヒロイズムに、危うさを感じてしまう。

 

戦争、また戦後には、掘り下げるべき多くの側面がある。戦争における個々の選択、運命、矛盾。そしてその結果がもたらす深い悲哀。しかし本作はその表面をなでるだけで、本来あるべき多層的な理解を阻害している。エンタメだからそれでいい、とは私は思わない。例えば、2023年においては既に時代遅れになりつつあるマーヴェルの大作『アヴェンジャーズ』だって、正義のあり方についてもう少し深い思索を盛り込んでいたはずだ。それがあったからこそ、あれほどのブームを生み出すことができたのではないか。

 

本作は、怪獣という巨大な”現象”と、個人の人生の物語を巧みに結び付けている。しかし、パーソナルな物語としてしまったがゆえに、広がりを持たせるべき視点や深い葛藤を省略してしまっている。率直に言えば、その結果としての反戦メッセージは、過去のシンプルなイズムにとらわれてしまった反戦運動と同じような軽薄さがあり、ともすれば、過去の大東亜共栄圏のような理念の正当化と変わりがないように思える。その単純化された描写には、エンタメとはいえ今一度立ち止まって考える点があるのではなかろうか。

 

ゴジラ」のキャラクター性

ふたつめ。より深刻なのは、一つ目の問題によって引き起こされる、キャラクターとしてのゴジラの希薄化だ。

 

ゴジラといわずあらゆる怪獣は、何かの象徴だ。原爆の恐怖(初代ゴジラ)肥大化したバブル期日本のなれの果て(メカキングギドラ)、地震津波原子力災害の犠牲者の怨念(シン・ゴジラ)。あるいはもっと単純に、悪い怪獣とプロレスをやる正義のヒーロー。怪獣は文明を破壊する自然災害的な側面に、込められた比喩から生じた「キャラクター」としての個性が同居しており、観客は映画の登場人物に共感すると同時に、怪獣自体にも感情移入し、その中に物語を見つける。

 

では、今作のゴジラはどうか。何の比喩かは言うまでもない、戦争そのものだ。主人公たちが逃れようとしてもなお追ってくる、戦後のゼロをマイナスに引き戻そうとする戦争の怨念。しかし、そのキャラクター性は、物語の中で発揮されていただろうか? 我々は、このゴジラに共感できただろうか?

 

確かに、今回のゴジラの造形……人間を直接にらみつける目、人を追い、踏みつける巨大な脚は、逃れられない戦争の恐怖の体現だ。一方、このゴジラには物語がついていない。

 

それは、何の予兆もなく、ただ「大戸島の伝説の生き物だ!」という解説だけで登場し、その後主人公たちの物語の幕間にいつのまにやら被爆・巨大化、そして縄張りを拡大させ東京に登場する。その行動にはキャラクターとしてのプロットがない。また、画面に登場する際も「人間からの視点」が強く意識されており、逆に神の視点=ゴジラの視点での描写は排除されている。

 

なぜか? 観客に、ゴジラに感情移入されては困るからだ。

 

先に述べた通り、本作は、戦争にひどい目に遭った主人公が、改めて対ゴジラと対峙し、自分自身の人生を勝ち取る物語だ。とすると、ゴジラ自身に憎悪や悲哀の感情、あるいは神性のようなものを表現させ、観客がそこに共感を感じてしまったら、主人公が心おきなく戦い、打ち勝つことができなくなってしまう。

 

これが本物の戦争映画であれば、主人公が銃を向けた米兵には、恐怖の感情が浮かんだことだろう。それが主人公に葛藤を与え、人間性をめぐる成長が描かれたはずだ。しかし本作では、そのような複雑性は排除されている。本作のゴジラはキャラクターでなく、徹底して単なるケモノ、人間を描くための障害物でなければならないのだ*1

 

つきつめれば、大衆映画としてシンプルなテーマに拘ったが故に、ゴジラ"自身"の魅力が減じ、「怪獣映画」である意味が縮退してしまっている。その矛盾こそが、本作のもっとも大きな問題だと感じる。

 

 

これが最後の一作とは思えない

と、でっかい文句を二つも書いたが、やはり山崎貴監督は優れた映画作家だと思うのだ。映画は芸術であり、産業だ。スタッフ一人ひとりの専門性を活かし、限られた資源の中でその価値を最大限に引き出すことが求められる。監督はそれができている。

 

本作で印象的だったのが、戦争直後の闇市や破壊された銀座で、主人公たちを捉えるカメラワークだ。すーっと動くカメラに映る情景はCGIを駆使してリアルに奥行きが出されているが、役者がフレームにぴたっと収まると、その構図、美術、ライティングに至るまで、昔ながらの邦画や国産TVドラマを彷彿とさせる画に収まる。

 

VFX作家である監督は、実写パートでは、スタッフの熟練した職人技を信頼し、またある意味コストパフォーマンス良く作ることで、CGIで映像の世界をスケールアップさせることに専念しているようだ。単に多くの観客に響く脚本を書くだけではなく、日本映画の伝統的な手法を肯定し、トータルで「日本ならではのブロックバスター映画」を実現している。

 

それでもなお、私は映画に進化を求める。エンタメのブロックバスターであっても、テーマを更に深め、複雑化させた作品を観たい。VFXだけでなく、美術、ライティング、演技に新しい風を吹き込むような作品を期待している。

 

そして、もしこの作品が日本の大衆映画の終章となるのであれば、それは新しい始まりの予兆ともなるはずだ。次のゴジラが、新しい可能性を秘めた世界に進んでいくことを、心から願っている。

 

余談:音楽が良い

本作、音楽の使い方は素晴らしかった。ありがちな「感動の場面では感動をとことん盛り上げる曲」といった使い方をせず、外画のようにきちんとシーンに合わせ、邪魔にならないように流れてくれる。

 

まただからこそ、劇中高らかと鳴るゴジラのテーマ曲が効いてきた。いや、正直最初の上陸シーンでテーマが流れたときはちょっと演出の方が浮ついていて困ったが(むしろテーマ曲が終わり、原爆雲のあたりからゾワっとした)、クライマックスに曲がかかったときは、さすがに滾った。やー戦争の描き方云々いいましたが、それはそれとして熱くなるものはあるわけで。『インディペンデンス・デイ』大好きだし。

 

余談:プロットもうちょっと繋がらんかね

本作の演出や脚本には個人的な不満があれど、そういうモノだという腹落ち感は得ている。しかしやっぱり気になるのがプロットの整合性だ。描きたいシーンを描こうとするあまり、その間のキャラクターの行動ロジックが抜け落ち整合しなくなっている場面がまま感じられた(え、結婚してない? え、その状況で銀座行かせちゃう?)。

 

あとクライマックス、あれだけの船のもやい結ぶのに10時間ぐらいかかるんじゃねーの ?? ゴジラ復活しちゃうよ! だいたい震電、燃料槽も爆弾に替えたのにどんだけ飛び続けられるんだ。あそこの時間を無視したリアリティのなさはちょっと萎えた。まあそれを言いだしたらハリウッド映画かて大概だけど。

 

余談:女性の扱い

現代の視点で戦争の描き方を批判したので、それと類する批判を重ねる必要は無いと思うんだけど、女性キャラ2人、さすがに安易というか、便利に使いすぎじゃないですかね。

あとね、3歳に満たない子供を寝かしつけたままそっと抜け出すという描写は心底殴り倒したくなったよ。例え疑似家族であっても、そんな親がどこにいるか! 朝起きたときの子供のパニックを想えよ! あんなにきれいにお隣さんちに書類持って来ねえよ! 根本的な想像力の問題。

 

余談:復活させるな

本作、手堅いテーマで綺麗に終わったからこそ、最後の逆余韻で不穏さを残す描写を見せつける必要はなかったと、心底思う。原爆症とか考えずに、幸せに、スッキリ終わらせてやれや! あとゴジラもあそこまできれいに倒されたんだから、復活させようとすんな! 作品は作品として世界を閉じさせてやってくれ! これが最後の不満。

*1:だからこそ、最後の突然の敬礼にはとても違和感があった