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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

我々はロボコップみたいな時代を生きている

ロボコップの劇中劇、というか劇中ニュース番組である『メディアブレイク』が、いまも大好きだ。

 

それは虚無と皮肉と俗悪な犬儒で彩られたロボコップの、煮凝りのような報道パロディだった。レーザー衛星で誤射される元大統領とかアマゾンの原発事故とか、当時の醜悪な現実を更に悪趣味にしたジョークニュースが矢継ぎ早に繰り出される。その内容によってころころ表情を変えるキャスターの演技がまた軽薄で最高だった。ニュース番組の持つ本質的な醜悪さとともに、観る者である我々の抱える軽薄さ、虚しさを突き付けられる。

 

そう。現実の我々もそんなものなんだ。パレスチナ紛争激化のニュースを見て、無辜の命が失われることに憤りながら、ふと手を見るとイスラエル軍の戦車のプラモを作ってたりする。我々はこの世界にどう折り合いをつけていったらいいんだろう。テレビの向こうのクソみたいな現実は、ロボコップでそう描かれたように、明日にも自分のもとにも訪れるかもしれない。人生をどん底に落とす個人的な体験が、メディアのフィルターを通して美談として語られる日がくるかもしれない。そんな恐怖すら覚えるのが、ロボコップと『メディアブレイク』だった。

 

 

で、いま。これまでになく、そのロボコップ的な状況が身近にある時代となってしまった。オリンピック報道だ。

 

パンデミック前だったら、「オリンピックを批判しながらも、なんだかんだで協議を見てしまう自分」を自分で皮肉りながら、許せてしまっていたかもしれない。莫大な税金が飛び、人生を振り回された人がいたのに憤りつつも、スポーツの感動に抗えず、画面の中の選手たちに注目してしまう自分。

 

ところが、パンデミックにより事態は複雑になった。もしこのままオリンピックが開催されると、そこには見えてしまうのだ。選手たちの向こうにいる、無辜の観客たちの姿が。

 

観客席に1万人の幸せそうなひとたちがいたら、そのうち何人の人が、今回観戦に出向いたことによって、ウイルスに感染することになるのだろう? 人の移動があり、集合があり、またスポーツの興奮による活発な会話がある。ゼロというのはムリがある。相撲や野球の感染だってトラッキングしていないだけで、ゼロではないだろうから。

 

それに今回、相撲や野球の1回の開催をはるかに超える人が集まることは確実なわけだ。政治家やイベント関係者が言う対策がどれだけ奏功しても、すでに上がり始めた都内の感染者数は、開催時期になればそれなりの数になり、集合による感染確率も上がっていることだろう。

 

観客席の幸せそうな人たちの数%が、この観戦がために感染・発病し、その家族にも感染させ、さらにその中の1割ぐらいの人が重篤化したり、命を落としたりする。幸せな観戦の2週間後に。

 

 

7月後半。通常のニュース番組では犠牲者が増し、医療がひっ迫する様を見せつけられつつ、その次のスポーツニュースでは奮闘する選手の感動的な姿を見せられる。さっきまで増える患者数に憤っていた自分は選手の姿にコロっと感動させらるが、ふと、その選手の向こうにいる確率論的な死を定められた観客の姿を見ていることに気づく。

 

その状況は、すさまじいまでの俗悪だと思う。

 

戦争や自然災害のほうが、まだ単純だった。純粋に犠牲者が無いことを祈り、また状況の鎮静化を願うだけで良かったから。今回のオリンピックは違う。このスポーツの祭典を楽しむことは、同時に背後の観客の死を受け容れることに直結してしまう。

 

 

はたしてオリンピックが始まり、私はその画面を正視できるのだろうか?

 

おそらくできてしまうのだろう。残念ながら、人間はそういうふうにできているのだ。