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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『逆襲のシャア』はクェス・パラヤの物語だ。

4月のあたまの休日。昼から銀座で外せない用事があったので、ちょっと無理して銀座ピカデリーで『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(ドルビーシネマ版)』を観てきた。久々の銀座はまるで別の街だった。地下街はリノベーションが完了し、マリオン周辺も再開発され、新しい映画館ができてる。

逆襲のシャア』も、劇場で観ると確かに別物だった。富野由悠季監督のファンだからビデオや配信で何度も観ているのだけれど、高画質・高音質の環境では、演技も演出も段違いの明晰さで心に入ってくる。

そこで思い知ったのは、この作品は10年続いたシャアとアムロの物語の完結編であると同時に、クェス・パラヤの映画であったということだ。なるほど彼女は物語の狂言回しであり、トリックスターでもある。しかし同時に、彼女は成長する主人公であり、監督と視聴者の代弁者でもあった。

 

女性キャラの見事な造形

ドルビーシネマ版でまず感じ入ったのが、女性キャラの声、そして造形だ。

例えば、ナナイ・ミゲルを演じる榊原良子の演技。前作でハマーン・カーンという孤立した指導者を演じた彼女が、今度はシャアの側近かつ愛人を演じ分けてみせる。後半「大佐が愛してくれるのなら」の「愛して」に込められた抑揚には、息を呑んだ。

弥生みつき演じるチェーン・アギも、うまく演出されたキャラクターだ。若い技術士官であり、アムロの恋人となった彼女が、月面でアムロと再会し子供のようにはしゃぐ声。それが中盤、若いクェスやハサウェイを前にしたときはごく普通の、キャリアらしい大人の声になる。

その落差、つまりは無自覚に子供と大人を使い分け、しかもそれを恥とも思わない厭らしさを、勘の良いクェスは瞬時にわかってしまうから、苛立つのだ。両者の声の演技から、その構図が透過的に伝わってくる。

 

観客の分身、クェス

クエっす

そしてクェス・パラヤ。前作ではアムロの未熟な恋人役だった川村万梨阿が、こんどはもっと子供の、アムロやシャアに父性を求める少女を演じる。彼女の声を通して表現される、子供らしい無邪気な万能感。全てを理解できてると思いながら、何もわかっていない未熟さ。理想へのあこがれと、何も思うようにできないもどかしさ。世界のあらゆるものに対する、苛立ち。

彼女はよく、4人の男に対する立ち振る舞いの「ウザさ」で引き合いに出される。でも、観客が感じるその不快感は、クェスの女性性によるものじゃない。前述のような思春期の苛立ちは、女だろうが男だろうが、誰もが通過したものだ。我々は彼女の中に過去の自分自身を見つけて、無意識に腹を立ててしまう。言ってみれば、クェスは観客の分身だ。

そう考えると、彼女を取り巻く4人の男たちの存在は、劇としてうまく配分されており、いちいち腑に落ちる。最初のあこがれであるアムロはクェスを眼中に入れず、一方似た立場のシャアはいいように使おうともする。年上のギュネイは優越性をひけらかし気を引こうとするし、ハサウェイは子供らしい純粋さで彼女を求める。彼らのそれぞれに歪んだクェスへの接し方が、彼女の個性を浮き彫りにし、彼女の行動に筋道をつけてゆく。極論、アムロもシャアも、クェスという主体を説明し引き立てるためのワン・オブ・ゼムだ。主人公はクェスなのだ。

 

クェスの物語

現代の教科書的な幕構成のハリウッドエンタメに慣れてしまっている身としては、本作をシャアとアムロの物語として捉えると、少々落ち着かない、どこで感情を区切ってよいのかわからないプロットであるように思える。だが、クェスを映画の軸として見れば答えは簡単だ。

インドから宇宙に上がるなかで、地球と宇宙コロニーに分かれた世界の現状を俯瞰し、世界と自分の問題にうっすら気づくロンデニオンまでが第1幕。そのうえで「ニュータイプ的洞察」を発揮し、瞬時にシャアに付いた彼女の冒険が、第2幕だ。

第2幕で彼女は、自分の理想としての"大人=理解力のある人"を求めるなか、本当の父親を殺してしまい、苦しみながら戦場をさすらう。シャア、ギュネイ、ハサウェイ。それぞれに対する猜疑と、捨てきれない優しさ。彼女はそれらを内に秘めて、葛藤を膨らませてゆく。

 

そして、第2幕の終局。シナリオの教科書では、ここで主人公が誰かの死をもって自分が成すべき真の目的に気づき、クライマックスに突き進むのものだが、本作では凄まじい外連味が発揮される。クェス自身が死ぬのだ。自分の死をもって、彼女は葛藤を乗り越え、真に求めるものは何かを理解するのだ。

そして、クェス生まれ変わる、その後も映画の最後まで居続ける、サイコフレームに。これは小説版ガンダムアムロが死んでしまう展開と相似だ。

 

彼女を苦しめてきた、不理解、不信、嫌悪。そういうものを内面に抱えた彼女が欲し、また自分がそうありたいと願っていたのは、「分かり合えること」だ。彼女が死に、戦場に散った彼女の意思、魂は、その直後の出来事……究極の不理解ともいえるハサウェイの復讐殺人を見て、その場にあったサイコフレームという精神の増幅器に"宿り"、宇宙に拡散する。お前らみんな、分かれ、と。

 

次の瞬間、戦場とは別のところにいる様々な人々が、来るべき破局を感じ取り、それを防ぐためにやさしさで動き出す。見事な第3幕への転換だ。

 

サイコフレームという発明

最近のインタビューで、富野監督はサイコフレームの扱いについて不満があると述べていた。もっとやりようがあっただろうが、ああするしかなかったと。それは、サイコフレームというものを思いついてしまった彼の、彼流の自虐を纏った自慢であり、自負でもあったと思う。

物語の中でサイコフレームは、人型ロボット(モビルスーツ)や、今風に言えばドローン兵器(ファンネル)をスムーズに操り、ガンダムを強化するガジェットとして登場する。

しかしそれは、第3幕で真の意味を得て、物語を引っ張る無言の主人公となる。サイコフレームはシャアとアムロの戦う画面に常に写り続け、ふたりの確執、連邦とネオジオン、エリートと庶民、そういった多層的に描かれる相互不理解を超えるための、魂の器としてふるまう。

 そのちからは、最後の最後、あの隕石を食い止めるシーンになって本当の姿を現す。

それまでサイコフレームの欠片としてシャアとアムロの戦いを見守った「主人公=クェスの魂=人々の意思の総体」は、最後、その器をもう一つのサイコフレームに移すのだ。ニュー・ガンダムだ。

 

 

富野監督の生み出した「ニュータイプ」という設定では、人々の「意志のちから」というものは亡霊であり、主役にはなりえなかった。しかし今回、サイコフレームという物理的な存在の"うつわ"を提示としたことで、実質的に物語を支配できるようにしてしまった。

隕石堕としを食い止めようとしたのはアムロだが、それを実行したのは、ガンダムに集まってきた人々の意志の力そのものだ。ここに至って、シャアもアムロも、完全に物語の主役を降り、互いに解説し合うだけの傍観者になってしまう。主役は、人の意志を負ったニュー・ガンダムになったのだ。

 

これは初代ガンダムで、最後の最後にアムロガンダムを降り、ワンシーンだけガンダムが意思を持つ(ように見える)ロボット=純粋な主役になってしまう構成の発展形と見ることもできる。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、クェスを軸として見ると、最後の最後でタイトルどおり、ガンダム自身が主役となり物語に結末をつける映画となる。よくもこんなストーリーテリングを編み出したと思う。今回ほとほと、感動した。

 

富野監督の凄さは、クェス・パラヤというキャラに加え、サイコフレームガンダムに搭載されているという伏線をもって、巨大な人型ロボットに無数の人の意思が重なり合い、神にも似た力を発揮してしまう道理を作って見せたことだ。シナリオ構成においても、また作品世界の中のロジックとしても、クライマックスのムチャクチャを、富野監督は単なる奇跡=ファンタシーではなく、合理的な展開の帰結として説明するに至った。この方法論は、SFだ。富野監督はやはり、SF作家なのだと思う。

 

 

 

余談

もう1点付け加えれば、サイコフレームの金属粒子云々の発想は、ナノマテリアルのそれだ。『逆襲のシャア』は『ターミネーター2』より早いナノテクノロジーを題材にしたSFドラマでもある。