farsite / 圏外日誌

Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

映画『ウォー・マシーン 戦争は話術だ!』 - 「情けない」おはなし

観終わって、なるほどと感心した。こういう映画はNetflixだからこそできたのかもしれない。ド派手なブロックバスターとも、単館系の物語映画とも、あるいはテレビサイズのドキュメンタリーとも違った、特異な手触りだ。

あらすじ

部下からの信頼も厚いアメリカ陸軍マクマホン大将は、泥沼化したアフガニスタン紛争で「勝利」を収めるため、現地に赴く。自分の手で実電できる範囲の勝利を自分自身で定義し、その実現のための手段を練る将軍。彼の試みは、成功するのか?

配信

ノンフィクションの手触り

f:id:debabocho:20170630164311j:plain

最近読んだ本に、『アシュリーの戦争』という米国作家のノンフィクションがある。米軍初の女性特殊部隊が、どう構築され、アフガンの戦場でどう戦ったかを、綿密な取材を重ねたうえでひとつの物語のように書き上げた本だ。その結末はつらいもので、どっしりと思い感動が心に残る。それは「泣かせ」じゃない。個人の感情の話に走らず、組織や状況がなぜ、どのように作られ、どのような結果になったかを、ノンフィクション特有のドライな筆致で積み上げていく。その結果として、ある暗い理解をもたらす。

本作にも、このノンフィクションとそっくりの手触りを感じた。

映画の原作『ザ・オペレーターズ』は、ジャーナリスト、マイケル・ヘイスティングがローリング・ストーン誌に発表した、陸軍大将スタンリー・マクリスタルの密着取材記事を書籍にまとめたもの。『ウォー・マシーン』は架空の物語となっているけれど、ノンフィクション本の雰囲気をそのまま映像化したんだと感じられる。

 

この映画はドライだ。序盤で観る側の感情をコントロールする物語の起伏もなく、つらつらと将軍と仲間たちの行動が描かれていく。ブラッド・ピットの演技は少し浮世離れしたところがあり、そこもまた、感情移入を拒む。

コメディのジャンルにカテゴライズされている本作だけれど、その枠に入るものか、正直自信がない。風刺的な映画だが、個別の状況をことさら明示的に批判していない。音楽やセリフで「これは愚行ですよ」と強調しない。ただ将軍と仲間たちの行為が流れてゆく。その流れ全体から、不穏さ、愚かさが滲み出ている。

もちろんエンタメ映画だから、終盤にはある程度分かりやすく演出されたクライマックスがある。ティルダ・スウィントンが演じるドイツ人政治家が(この人ほんと誰にでもなれるな)、彼の一連の作戦の問題を鋭く指摘するシーンは、アフガニスタン戦争における状況全体の何が問題なのかを見事に表している。それは、米軍が問題解決という名のビジネスのロジックで戦争をしていることだ。正義と人道の実現のための戦争の中身は、乾いたビジネススキームの積み重ねだ。その枠の中で、人は成功を求めてしまう。

 

映画は、そのビジネスの失敗の物語だ。成功も栄光も、一瞬たりとも出てこない。マクマホン将軍とアフガニスタン紛争は、ただただ、失敗していく。さらに、その失敗が繰り返されていく。そこに怒りを感じるか? 悲しみを感じるか? 自分に残ったのは、なんというか、情けないなあ、という感情だった。『ウォー・マシーン』は、そんな感情を与えてくれる、稀有な映画だ。

マイケル・ヘイスティング

もうひとつ、この映画は作るに値する理由があったと思う。映画の原作『ザ・オペレーター』を上梓したマイケル・ヘイスティングは、その後も米国連邦政府に対する批判的な取材記事を出し続けていたが、2013年に交通事故を起こし、33歳の若さで亡くなっている。この事故は夜明け前の時間帯に彼の運転する自動車が最高速度で並木に激突するというもので、その状況から陰謀説が囁かれている。

ドラマチックな陰謀説にはあまり与したくないけれど、あまりの若さで世を去ったこの作家の業績は、広く伝えられるべきだろう。自国の暗部を明らかにし、国をより良いものにする機会を作ろうという彼の意思が、映像作品として常に手の届くところに置かれる意義は深いんじゃなかろうか。

映画『ある決闘 - セントヘレナの掟』 - それは神話か、という話

一癖あると聞いて観に行った西部劇『ある決闘 - セントヘレナの掟』、なるほどちょっと毛色が違った。物語の大枠は連続殺人の潜入捜査、描き出すのは神話の誕生。

あらすじ

19世紀末、南北戦争の混乱が尾を引く米国テキサス州で、リオ・グランデ川に多数のメキシコ人の他殺体が流れ着くという事件が発生する。事態を重く見たテキサス州知事は、ひとりのレンジャーを潜入捜査員としてリオ・グランデ上流の町に派遣、犯人と目される町の支配者「宣教師」の調査を命じる。

しかし、彼と宣教師には浅からぬ因縁があった。彼の父親はかつて、宣教師に決闘を挑み、殺されていたのだ……。

感想

f:id:debabocho:20170624205301j:plain何と言ってもこの宣教師の存在感! ものすごい。禿頭碧眼で目の上に入れ墨を入れた、荒木飛呂彦の漫画から出てきたような濃いキャラだ。むしろいつスタンドを出してもおかしくないぐらい、スーパーナチュラルな不穏さで満ちている。

この世から半歩ズレてしまったような不穏さは、冒頭レンジャーが町に向かうあたりからひたりひたりと増していくんだけれど、宣教師と会ってからはもう完全に不穏さに飲み込まれる。「北部の教養ある人間が南部の知らない町で怖い目に合う」っていう典型的なアメリカ都市伝説の雰囲気だ。宣教師は怪しげな力で町の人々をマインドコントロールしており、かつ俗悪。そこはもうフォークロア空間だ。

で、観ていてはたと思った。ひょっとしてこの映画、後半本当に超自然現象的な、悪魔との対峙とか魔界からの脱出とかのストーリーに転がり込むつもりでは? まさかのVFXもりもりで。

 

あいにくというか幸いというか、そうはならないあった。あくまでこれは西部劇、決闘と銃撃戦のある西部劇だ。

ただ、その決闘を経て、物語の正体は明らかになる。これはフォークロア的な恐怖に巻き込まれた男の物語じゃない。フォークロアを作る男の物語なんだ。つまるところ、神話の誕生と言ってもいいんじゃなかろうか。

 

主人公の敵対者である宣教師は、物語が進むにつれ、単なる敵キャラクターではなく、物語のゴール、主人公の内的な欲求そのものにも等しい、別種の存在であることが明確になっていく。それはレンジャーが乗り越えるべき「悪」であり、取り戻すべき「父性」でもある。

かつて彼の父親が「宣教師」になる前の男との決闘に敗れたとき、子供の彼は宣教師と目線をかわし、その瞬間何かが分かれた。子供は知性と正義を分け与えられたレンジャーになった。男はその残り、悪と混沌を分け与えられ、同時に本物の父親を力でしのぐことによって、彼の父性をも引き継いだ。つまるところ、宣教師はレンジャーにとって「悪」と「父性」の混合物だ。

レンジャーがその存在と再会したとき、彼は直視を避けようとするも、結局は引きつけられる。宣教師は失われた邪悪な半身であり、同時に父親でもあるからだ。その宣教師も、邪悪さゆえに手に入れられなかった「愛」をレンジャーから奪おうとする。この愛をめぐる流れは、じつに象徴的で神話らしい。

 

そしてクライマックス、レンジャーと宣教師は、対立の中で無意識に融合をはじめる。ライフル銃による遠隔地からの狙撃戦から、ピストルレンジの銃撃戦、そして手と手の触れ合うレンジに。この対決は凄まじい見ごたえだ。様式美的なカッコ良さではない、戦う者の息遣いが感じられるバトルは、西部劇としての面目躍如だ。

引かれ合いながらも、決して平等に溶け合うことのできないレンジャーと宣教師。その極限の戦いは、聖母の名を持つ者が現れ、遂に幕を降ろす。レンジャーは奪われた愛によって世俗に生きる理由を失うが、代償として、父親を知ると同時にそれを乗り越え、完全な自分を取り戻す。彼は人知れず、神話的な存在となったのだ。そして彼は、森の中に消えていく……。

 

西部劇にモダンな潜入捜査ミステリーをかけあわせたのかと思いきや、映画は意外なところに着地してしまった。もちろん映画の構造はしっかり現代のエンタメ劇になってるし、アクションはすごい。でもそれ以上の不思議な手触りが、この映画にはある。

確かに、マトモに考えれば、プロットが着地というより拡散して消えてしまったように見える点もある。でも同時に、これはそうでなければならないんだという強い納得感もある。

 

不思議だけれど、納得感のある物語だった。なんでそう感じるんだろう。神話はすべての物語の原点だからか、などとテキトーなことを言っておく。

余談

ひとつ難点を言うと、主役2名以外の演技が、もう少し良かったらと思うんだけど、まあそこは全体のバランスをとるうえでの判断だったのかな、とも思う。

映画『パトリオット・デイ』 - 真実の物語、偽物は誰だという話。

観終わって調べてみて、びっくりした。これ、M・シャラマンの『シックス・センス』並みの叙述トリック作品じゃないか。ボストンマラソン爆弾テロ事件を、状況も登場人物も現実に極限まで近づけて描いているのに、肝心のあるものだけが、現実じゃない! 

いやそこが映画のポイントじゃないし、観てればなんとなくわかるし、製作者も隠してるわけじゃないけど、念のためネタバレ嫌いなひとは注意してください。

あらすじ

2013年4月15日、米国パトリオット・デイボストンマラソン大会の会場は、一瞬にして恐怖の現場へと変わった。ゴール付近で爆発した爆弾による殺戮と混乱、恐怖の伝染。この恐怖を一刻も早く終結させるため、FBIと市警察の100時間に及ぶ追跡が始まる……。

偽物は誰だ!

きのうまで幸せに生きていた、たまたまそこに居合わせただけの無数の被害者・犠牲者。また、テロに立ち向かう膨大な警官、捜査官。様々な人々の人生の断片がよりあわさってできた100時間の恐怖という“事実”。映画はそれを2時間のエンタメにして、観客にメッセージを伝えなきゃならない。

で、この映画どうしたかっつうと、役者が実在の人物を演じる再現ドキュメンタリーの中心にひとり、架空の警察官を主人公として置いてしまった。これすごい。

このキャラが、複数の状況の集合体である映画を1本にまとめ、全体を分かりやすく俯瞰できるようになる。更に演じるマーク・ウォルバーグのリアルな演技が、現場の臨場感をダイレクトに描き出し、共感を作り出す。巧い構成!

 

主人公は正義感だけど少々荒っぽく、野球カード集めの子供じみた趣味を持ちながら、酒好き。現場の混乱に気持ちがついてゆかず、思わず酒瓶に手を出してしまうシーンなんか、「ああ、こういうこと実際ありそうだな」と思えてしまう。彼のリアルな行動、リアルな感情は、現場にいた様々な人々への取材から集合的に作られたものなんじゃないだろうか。

 現実を俯瞰し解決へと導く彼は、ボストンの守護天使のように見える。彼の人格は、ボストンの人々の総和だ。

そんな彼が、クライマックスの直前、彼の架空の人生を引き合いに、観客に向けメッセージを語る。善とは何か、悪とは何か。憎悪に打ち勝つものは何か。我々の心の中に潜むままならないものへの憎しみを乗り越える、それはなにか?

直球すぎるメッセージだけれど、ドスンと響く。よくぞ、よくぞまとめた。

カンディ・アレキサンダーの存在感 

そのメッセージの前段として、もうひとつ、非現実的にも見えるシーンが挿入される。それが、容疑者の妻への尋問パートだ。この尋問シーンの異質な緊迫感も素晴らしい。

現場に突然現れたカンディ・アレキサンダー*1演じる謎の尋問官は、自らを中東難民出身だと語り、簡潔な言葉で、容疑者の妻から証言を引き出そうとする。しかし映画の中の彼女が本当に引き出すのは、「憎悪」と呼ばれるものの中にある独特のロジックだ。その存在は理解できるのに、決してわかりえない。異常性を明確にする。

尋問が終わり、彼女は捜査官たちに突き放したようにつぶやく。 "Good luck, huh?"

むちゃくちゃカッコいい! 尋問中はアラブなまりの英語なのに、最後のセリフだけものすごくドライなニューヨーク言葉。カンディの地の演技だ。

全体の流れからも異質すぎる、「敵とは何なのか」を語るパート。これが物語をぎゅっと締めて、直後に映画のテーマが語られ、そしてクライマックスとなるわけだ。いやあみごとみごと!

ちなみのこの謎の尋問官はフィクションの存在じゃない。実在する米国NSC監督課のエリート組織、『高価値抑留者尋問グループ』(HSG: High-Value Detainee Interrogation Group)のメンバーだ。HIGはブッシュ政権時代のCIAによる暴力的な尋問が問題になった後、オバマ大統領が創設した省庁横断型の対テロ組織で、各省庁の尋問のプロが集まる。この存在を巧く利用して、事実と虚構の橋渡しをしてみせた。

 

筋の通ったアクション、テーマ、そしてリアリティ。情況をリアルに想起させつつ、強い共感を残すエンタメとして、見事な映画だったと思う。

 

余談 

シリアスな物語でありながら、きっちり笑いどころをもってくるのもほんっと巧い。「マザー・ファッカーを捕まえろ!」「このハンマーを使え!」「禁煙しよ」「間違えた」と名セリフ満載。

ちなみにこの映画で Drunch という単語を覚えた。 ドランチ=ドランク・ランチ / 昼メシから酔っぱらうこと。

*1:カンディ・アレキサンダーは生粋のニューヨーカーで、ブロードウェイのダンサーから振付師を経て役者になった。個人的に、シチュエーションコメディ『ニュースラジオ』での演技がすごく印象に残ってる。