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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

アニメ版『PLUTO』 - この映像化のどこに迷ったのか

PLUTO』の放送がネットフリックスで始まるというニュースを見て、おっと思ったのが、1話約1時間、全8話という構成だった。ケーブル/配信系の海外ドラマでおなじみのミニシリーズ(リミテッドシリーズ)フォーマットじゃん。

 

思い返してみると、浦沢直樹作の原作漫画はミステリー&サスペンスフルな物語だし、リアリズム路線だ。時代が回って海外ドラマのトレンドに合っている。高品位なアニメ作品として、フォーマットも海外ドラマ型に落とし込むのはうまいやり方だ。そんな風に上から目線で考えて観始めたのだった。

 

しかし、エピソードを観進めるにつれ、これは何か違うぞ、という感覚が立ってくる。いや面白いか否かで言えばムチャクチャ面白いのだ。だけど、海外ドラマに使うのと同じ脳みそで本作を観てしまうと、この構成は映像作品として、構成に迷いがあるように思えてしまう。なぜだ。

 

これは、私が映像作品に、何を観て、求めているのかの問題だ。海外ドラマファンをやってきた自分が、なぜこの作品に困惑しているのだろうか?

 

フォーマット故の違和感

プルースト

このドラマに”迷い”のようなものを感じてしまうのは、たとえば菅野祐悟の音楽の使い方だ。

 

本作のサウンドトラックは、物語のドライバーであるケジヒトのディテクティブ・ストーリーに合わせたポップなものに始まり、それがより大きなものに浸食され、終盤の「地球が終わる」規模の大スペクタクルへと昇華させる構成だったのだと想像できる。しかし、その音のスケールアップは、全8話の構成のなかでうまく機能していないように感じた。作品全体のスケールがリニアに大きくなっていかないからだ。

 

ネット配信の隆盛とともに手法が進化したミニシリーズフォーマットは、連続劇というより1本の映画に近い。シリーズ全体でひとつの物語となるよう幕構成を強く意識して各エピソードを設計するのが定石だ。もちろん、通常の映画より長いから相当の自由度があり、技巧の余地も大きい。が、観る側の我々もこの10年で「長い映画」としてのフォーマットにすっかり慣れてしまった。

 

一方、2003年に描かれた浦沢直樹の漫画の面白さは、紙媒体での連載に特化したドライブ感にあった。その物語はある意味、毎回の読者の反応を見ながらのリアクティブなものであったのだと思う。複数のプロットを行ったり来たりして飽きさせないし、突飛なピボットや強引な展開も、先の読めない魅力として働く。しかしこのドライブ感は本来、全8話のミニシリーズの構成とは相いれない。先の読めなさ、ドライブ感は、90年代から流行した24話のクオリティドラマシリーズ*1では重視されたが、ミニシリーズでは更にそれを制御することで、進化してきたからだ。

 

小説なり漫画なり、異なるフォーマットの作品を映像化するにあたり、制作陣はテーマの整理や重みづけ、プロットの取捨選択と改変を行う。たとえば実写版『ワンピース』なんかは、それをやって物語の芯を残し、成功したパターンだろう。ところが『PLUTO』はそれを積極的にしなかった。制作陣は、原作の8巻のコミックスそのままの構成でエピソードをつくる判断をした。

 

故に、全8話のうち7話までが行き先の見えない複雑なプロットのダンスとなり、最後の1話で唐突に「世界が終わる」という大風呂敷を見せて、すべてを回収するという、正直ミニシリーズとしてはアンバランスなものとなってしまっている。音楽に関しても、序盤のポップなゲジヒトのテーマが後半まで繰り返されることとなり、物語が広がっているのか、あるいはパーソナルなままでいるのか、混乱し、迷っているように感じられるてしまうのだ。

 

では、本作は全8話のミニシリーズとして、構成を見直すべきではなかったのか? もっと物語を整理すれば、より伝わる作品になったのではないか?

 

……困ったことに、「見直さなくてよかった」と答える自分がいる。このドラマをではハリウッド型のミニシリーズフォーマットでプロットを整理・補完し、徐々に謎が解けてゆくスマートな構成に改編したら巧くいったかというと、そんな気は全然しない。そうすることが、面白さに直結しない。

 

 

面白さの核心

PLUTO』の面白さは、「憎悪」というテーマに対し、全てのキャラクターが等しくひれ伏し、涙するところにあると思う。物語を動かすための機能的キャラクターは、僅かの例外を除いて存在しない。人も、ロボットも、敵も味方もみな、作品世界の中で生きている。そこで憎悪に直面し、うろたえ、泣く。謎めいた天満博士も、敵役のアドラーも、それぞれが憎悪に直面し、苦しみ、また共感し、涙を流す。

 

そのままならなさを見せつけること、ある意味メロドラマ的な「泣かせ」こそが作品の力点であり、本質なのだ。ミステリーを解くことを目的としてしまってプロットを整理したのでは、全編を覆う作品の魅力が消えてしまう。日本のアニメ作品として、米国の(およびその影響を受けた世界の)実写TVシリーズで確立している「勝ち筋」プロット設計から敢えて離れ、アンバランスさを内包したまま、憎悪とは何か、人間とは何かを描くことで、ストレートに感動が伝わる。

 

いや、天才的な脚本家によって、魅力を消さずにプロットの完成度を上げることもできたかもしれないが、そんな賭けはリスクが大きすぎるだろう。既に手塚治虫という天才の作った物語を浦沢直樹という別種の天才が翻案した作品なのだ。3人目の天才に恵まれる確率は限りなく低い。『PLUTO』は米国での実写化が先に検討され、巧くいかなかったと聞くが、むべなるかな、だ。実写化すれば、どうしても実写の解像度でシナリオも美術も演技も再構築せざるを得ない。

 

 

ここに至って思う。自分も海外ドラマに慣らされすぎてしまっているな。グローバル化した配信プラットフォームの中にあっても、『PLUTO』は日本の漫画であり、アニメなのだ。それを維持することに価値があるのだ。優秀な声優の演技とアニメーション技術に支えられ、『PLUTO』はそのテーマを伝えることに、見事に成功している。

 

 

余談:国際問題とテクノロジーの時代性

2003年に連載が始まった『PLUTO』がモチーフにしたのは、言うまでもなく大量破壊兵器を巡るイラク戦争の顛末であるけれど、そのアニメ化の企画が数年単位で進み、いま、2023年10月にリリースされた巡り合わせを想うと、これはちょっとした奇跡だと思う。既に2年続くウクライナ戦争に加え、イスラエル軍パレスチナ進行が始まったいま、「戦火の下で犠牲に苦しむ無辜の人々」に対し、これほどまでに生々しく共感できるタイミングはない。

 

人間臭いキャラぞろいの本作における僅かの外れ値、「物語機能的なキャラクター」は、トラキアアメリカ大統領だ*2。彼だけが物語の外側で、薄っぺらい悪役として描かれている。が、安易な「アメリカが悪い」という構造になってしまうのは我慢しよう。あれは物語に一定の結末をつけるために必要なギミックだ。本作を社会派作品として観るのなら、注目すべきは誰が悪い論ではなく、あくまで戦争という巨大な憎悪環境に対する、個人の心の持ちようだと思う。

 

 

もう1点、ロボットやAIに関する技術と我々の認識も、この数年で大きく変わった。2003年時点では、PLUTOにでてくる人間臭いロボットはずいぶんご都合主義的で、80~90年代のハードSF作品で描かれた「人間とは違う知性」としてのロボットに比べると、リアルには見えなかった。PLUTO世界のロボットに自我はあるのか、感情はあるとしたらどう認知しているのか、彼らは死をどう捉え、人間をどう見ているのか、法則性が無いように思えたからだ。

 

しかし、基礎的なニューラルネットの利用が一般化し、生成AIチャットボットのような「知性が無くても人間のようにふるまう存在」が当たり前に見られる2023年では、本作でのロボットの振る舞い、人間シミュレーターとしてのロボットは、むしろ自然のように思える。

 

作品世界でロボットの流した涙、ロボットの感じた感情は、ひょっとしたらプログラムされたシミュレーションで、人間の感じるそれとは違うのかもしれない。しかし、結果としてその感情を人間と分かち合うことができるのであれば、それは十分本物で、ロボットは「生きている」というに値する。

 

 

蛇足の不満ポイント

最後の最後に、純粋に不満も書いておく。本作、原作そのまんまだから良かったと言いつつ、ちょっとセリフは映像向けに整理してもよかったんじゃなかろうか。ベテランぞろいの声優を揃え、またアニメーションもキメどころはがっつり決まってる作品だ(アトムのあの表情!)。もう少し演技のちから、絵のちからを信じて、紙媒体ではセリフで説明している部分を抑えてほしかった。

 

特に1話のノース2号編。羽佐間道夫せんせいの凄まじい演技があるんだぞ(生で聴いたら感動で失禁したと思う)。最後の最後で「歌が聞こえる」などと説明セリフを言わせなくてもいいじゃないか。映像作品なんだからスピーカーから流れてるよ!

*1:古くは『ヒルストリート・ブルース』、全盛期は『ER 緊急救命室』など、社会派テーマと人間ドラマでシナリオの密度を上げ、シナリオの急展開で視聴者を飽きさせない高品位なTVドラマシリーズ。また、社会派の要素は抜けたが『24』などもこの継嗣にあたる。

*2:トラキアといえばトルコのことだと思うんだけど、なんでアメリカをモチーフにしたんだろう。これは原作読んだ時からの疑問