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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

海外ドラマは“特攻”をどう描いているのか

帝国時代の日本の「特攻」の精神性は、欧米には理解されないのか。あるいは自爆テロの行動原理は、我々には理解できないのか。どうなんだろう。

実はアメリカのテレビドラマでも、主人公側が特攻をかける描写は結構ある。中には直接的に神風特攻隊に言及し、その哀しきヒロイズムに共感するという作品すらあった。フィクションに仮託して、その精神性を理解しようとしているんだと思う。

アメリカ人が自爆テロをする話

最近のドラマで「自殺攻撃」といえば、真っ先に上がるのは『ホームランド』と『ギャラクティカ』。これはどちらも、日本軍のそれよりも現代の中東の自爆テロをモチーフに、皮肉を含ませて描いている。

ホームランド』では、中東で捕虜となった米国軍人が敵テロリストの思想に心を通わせる。帰還した後は米国への愛国心とテロリストたちへの恭順の板挟みになり、混乱状態のまま自爆攻撃を仕掛けようとする。そのゆがんだモラルは、現実世界で人が自殺攻撃に走る精神状態を、一面だがリアルに描いている。

一方『ギャラクティカ』では、機械生命体サイロンに植民地を占領されキャンプ生活を迫られた人類が、組織だったレジスタンス=テロ活動を開始、サイロンへの自爆攻撃を行う。アメリカ的な価値観に近い人々が、同胞への思いと敵への憎しみから特攻をしかける。更にその裏に、自分の命は守りながら部下に自爆を指示する人間がいる。その精神性と組織的な構造はおぞましくも哀しく、共感にすら値するものとして描かれている。

 特攻に共感する話

一方その少し前の映画やドラマ……9.11前のドラマでは、特攻のヒロイズムがクローズアップされたものが多い。その最たる例が、テレビではないが究極の激アツ底抜け戦争SF映画『インディペンデンス・デイ』だ。米国の片田舎の酔いどれおやじが、特攻で敵の巨大な宇宙船を破壊しアメリカを救う! これ以上の感動があろうかっ! てわけ。

現代の社会問題を未来世界に仮託して描いたSF『新スタートレック』でも、特攻は描かれている。シリーズで最も有名だろうエピソード『浮遊機械都市ボーグ』で、強敵ボーグに艦隊を全滅させられ万策尽きたエンタープライズ号は、地球を守るために特攻をかけようとする(それはすんでのところで、敵艦へのハッキングが奏功し回避されるのだが)。自由世界のモラルを体現するエンタープライズのクルーたちも、その人類愛ゆえに、最後には自殺攻撃を選ぶというシナリオだ。

自分が見てきたなかで、日本の特攻にもっともシンパシーを示していたドラマが、1995年の作品『宇宙の法則 Space Above and Beyond』だ。

2063年。地球から16光年離れたグリーゼ832星系の人類植民地が、突然の爆撃を受ける。これが人類と異星人チグとのファーストコンタクトであり、戦争の始まりだった。国連のもと各国宇宙軍が結束、チグとの戦争は拡大していく。米国海兵隊航宙騎兵 第58中隊の若きパイロットたちは、宇宙空母サラトガを母艦とし、攻撃機ハンマーヘッドを駆って戦域の中核へと乗り込んでいく。

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第8話で敵の母星への直接攻撃を行うことになった彼らに、上官は第二次大戦の特攻隊員の詩を読み上げる。「わが体はチェリーブロッサムのごとく散ろうとも、わが命は永遠に生きよう」なんて、まさか英語で聞くことになろうとは思わなかった。内藤初穂からの引用だそうだ。

これは感動的なシーンとして描かれている。100年前には敵だった戦士の心に思いを重ね、いま、人類全てのために戦う。もちろんドラマには、戦争の矛盾やおぞましさも描かれているけれど、ここでは、特攻への共感がある。

自殺攻撃を理解しようとする

特攻や自爆テロがフィクションで描かれたからどうだって話もあるけれど、米国では『ヒルストリート・ブルース』(英国では『コロネーション・ストリート』)あたりから、庶民の生活や社会問題をリアルに描きし、それをまた社会に伝えるという使命を帯びた社会派ドラマの流れがある。社会を映し問題提起するのは映画も舞台劇も同じだけど、特にテレビは「基本的に無料で(最近は有料が多いけど)あまねく広がる」というメディアの特性があり、重要視される。

だから、米国のテレビドラマで描かれる特攻、自殺攻撃も、あながち「ただのフィクション」でなく、それがどんな意味を持つものなのかを、社会に広く説き、問いかける側面がある。

 

「命を賭けて仲間を守る」。その究極の姿が特攻=自殺攻撃であるのなら、その概念は世界共通のものだ。そこに感じられるヒロイズムも同様だ。20世紀前半の日本人も、フィクションの中の米国人も、そして現代のテロリストたちも、それぞれのヒロイズムに駆られ、自殺攻撃を正当化し、またそれに共感する。「特攻の精神性」は、誰もが理解できるものなのだと思う。

いっぽう特攻=自殺攻撃には、人命をモノとして扱う、ヒロイズムとは対極の醜さ、おぞましさがある。絶望の中のヒロイズムに駆られて志願した人々を精神的にコントロールし、裏からその命で何が得られるかを計算する人々が、戦争中の日本軍上層部にも、現代のテロ組織にも、そしてフィクションの中にもいた。その構造自体もまた、理解できるものなのだ。

前世紀の神風特攻は、そして現代の自爆テロは、根本的に理解できない異常なものなのだろうか? 現代の米国テレビドラマは、特攻を少しでも理解しようと試み、それを視聴者に広げようとしている。所詮うわべだけのものかもしれないし、一面的なものかもしれない。でもその試みは、わずかでも、問題解決の下地になるんじゃなかろうかと期待している。「理解できない異質なもの」と切り捨ててしまえば、その本当のおぞましさも異常性も、それ以上わからなくなってしまうのだから。