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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

映画『パトリオット・デイ』 - 真実の物語、偽物は誰だという話。

観終わって調べてみて、びっくりした。これ、M・シャラマンの『シックス・センス』並みの叙述トリック作品じゃないか。ボストンマラソン爆弾テロ事件を、状況も登場人物も現実に極限まで近づけて描いているのに、肝心のあるものだけが、現実じゃない! 

いやそこが映画のポイントじゃないし、観てればなんとなくわかるし、製作者も隠してるわけじゃないけど、念のためネタバレ嫌いなひとは注意してください。

あらすじ

2013年4月15日、米国パトリオット・デイボストンマラソン大会の会場は、一瞬にして恐怖の現場へと変わった。ゴール付近で爆発した爆弾による殺戮と混乱、恐怖の伝染。この恐怖を一刻も早く終結させるため、FBIと市警察の100時間に及ぶ追跡が始まる……。

偽物は誰だ!

きのうまで幸せに生きていた、たまたまそこに居合わせただけの無数の被害者・犠牲者。また、テロに立ち向かう膨大な警官、捜査官。様々な人々の人生の断片がよりあわさってできた100時間の恐怖という“事実”。映画はそれを2時間のエンタメにして、観客にメッセージを伝えなきゃならない。

で、この映画どうしたかっつうと、役者が実在の人物を演じる再現ドキュメンタリーの中心にひとり、架空の警察官を主人公として置いてしまった。これすごい。

このキャラが、複数の状況の集合体である映画を1本にまとめ、全体を分かりやすく俯瞰できるようになる。更に演じるマーク・ウォルバーグのリアルな演技が、現場の臨場感をダイレクトに描き出し、共感を作り出す。巧い構成!

 

主人公は正義感だけど少々荒っぽく、野球カード集めの子供じみた趣味を持ちながら、酒好き。現場の混乱に気持ちがついてゆかず、思わず酒瓶に手を出してしまうシーンなんか、「ああ、こういうこと実際ありそうだな」と思えてしまう。彼のリアルな行動、リアルな感情は、現場にいた様々な人々への取材から集合的に作られたものなんじゃないだろうか。

 現実を俯瞰し解決へと導く彼は、ボストンの守護天使のように見える。彼の人格は、ボストンの人々の総和だ。

そんな彼が、クライマックスの直前、彼の架空の人生を引き合いに、観客に向けメッセージを語る。善とは何か、悪とは何か。憎悪に打ち勝つものは何か。我々の心の中に潜むままならないものへの憎しみを乗り越える、それはなにか?

直球すぎるメッセージだけれど、ドスンと響く。よくぞ、よくぞまとめた。

カンディ・アレキサンダーの存在感 

そのメッセージの前段として、もうひとつ、非現実的にも見えるシーンが挿入される。それが、容疑者の妻への尋問パートだ。この尋問シーンの異質な緊迫感も素晴らしい。

現場に突然現れたカンディ・アレキサンダー*1演じる謎の尋問官は、自らを中東難民出身だと語り、簡潔な言葉で、容疑者の妻から証言を引き出そうとする。しかし映画の中の彼女が本当に引き出すのは、「憎悪」と呼ばれるものの中にある独特のロジックだ。その存在は理解できるのに、決してわかりえない。異常性を明確にする。

尋問が終わり、彼女は捜査官たちに突き放したようにつぶやく。 "Good luck, huh?"

むちゃくちゃカッコいい! 尋問中はアラブなまりの英語なのに、最後のセリフだけものすごくドライなニューヨーク言葉。カンディの地の演技だ。

全体の流れからも異質すぎる、「敵とは何なのか」を語るパート。これが物語をぎゅっと締めて、直後に映画のテーマが語られ、そしてクライマックスとなるわけだ。いやあみごとみごと!

ちなみのこの謎の尋問官はフィクションの存在じゃない。実在する米国NSC監督課のエリート組織、『高価値抑留者尋問グループ』(HSG: High-Value Detainee Interrogation Group)のメンバーだ。HIGはブッシュ政権時代のCIAによる暴力的な尋問が問題になった後、オバマ大統領が創設した省庁横断型の対テロ組織で、各省庁の尋問のプロが集まる。この存在を巧く利用して、事実と虚構の橋渡しをしてみせた。

 

筋の通ったアクション、テーマ、そしてリアリティ。情況をリアルに想起させつつ、強い共感を残すエンタメとして、見事な映画だったと思う。

 

余談 

シリアスな物語でありながら、きっちり笑いどころをもってくるのもほんっと巧い。「マザー・ファッカーを捕まえろ!」「このハンマーを使え!」「禁煙しよ」「間違えた」と名セリフ満載。

ちなみにこの映画で Drunch という単語を覚えた。 ドランチ=ドランク・ランチ / 昼メシから酔っぱらうこと。

*1:カンディ・アレキサンダーは生粋のニューヨーカーで、ブロードウェイのダンサーから振付師を経て役者になった。個人的に、シチュエーションコメディ『ニュースラジオ』での演技がすごく印象に残ってる。

映画『ローガン』:殺しすぎではという話。

2000年から続いたX-メンシリーズ*1。その事実上の締めくくりとなる作品が、まさかの外伝だと思ってたこの『ローガン』。とにかく泣けるわけだ。あらゆるシチュエーションが。

あらすじ

時に2024年。21世紀初頭のミュータントの発生はすでに過去のものとなり、世界は平穏を取り戻していた。進化した人たるミュータントの力を借りずとも、テクノロジーの進歩は社会の効率化を進め、人々を健康にしていく……。だが、理想社会の陰には取り残された多数の人々がいた。彼らに紛れてひっそりと生きるローガンのもとに、ひとりの男が現れる。

感想

かつての活躍を忘れ、孤独に人生をすり減らせるだけのヒーロー。そんな彼らが得たひと時の家族ごっこ。虐げられた子供たちと、子供たちを命を張って守った普通の人々。子供たちだけのコミューン。そして、Xの字に託されたミュータントの存在意義の再確認。胸を詰まらせるシチュエーションを、よくもこれだけそろえたものだと思う。

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虐げられた人々が、見知らぬ支援者の手を借りて北に逃げる。この構造って南部の奴隷黒人を北部に逃がした「地下鉄道」*2を思い出すわけで、これは鉄板というか、これを想っただけで泣けてくる。『シェーン』へのオマージュを込めた力強いメッセージだってそうだろう。人は変われないかもしれないけど、誰かを変えることはできる。

引き込まれて、何度か涙を流した、思い出深い作品となった。

ただ同時に、ちょっとやりすぎじゃないかと、一歩引いて観ていたりもする。

 

良くできたアクション映画だと、凝ったアクションが釣瓶打ちになりすぎて、逆に単調に感じてしまうことがある。それと同じことが、『ローガン』では“泣き”で起きている。なにしろ死ぬのだ。「敵を殺す」ことに意味を持たせたという点もそうだけれど、味方が死ぬ。とにかく死ぬ。その死の度に、その世界で生きたキャラの苦難や幸福を考え、泣かねばならない。ちょっとしんどいのだ。

偉大な人物の、あまりに唐突で凡庸な死。死して細胞まで使われる者。ただそこにいただけなのに殺されてしまう普通の人々。そして自己犠牲。

そんなに殺して、よかったの? そうまでしないと、あの感動は作れなかったの? そうも思ってしまったわけ。物語に結末をつけるためだけに、ひとりひとりの命の重みが軽くなっているような……。

シリーズのなかでも例外的な作品であり、傑作であることは間違いない。でも、どこか腑に落ちなさの残る映画だった。

ディストピア映画としての完成度

そんな腑に落ちなさはよそに、意外と良いさじ加減だなと思ったのが、この近未来の地球のディストピア描写。無人トラックはシンプルなアイディアだけどこうくるか! という形状で、虚を突かれたうまいアイテム。企業進出の進む米国中部の農村地帯とそこに住む人々の貧困をうまく描きだし、最後に意外な陰謀(これはむしろX-ファイル並みの巨大な陰謀だ!)につなげて見せる。まあそんな陰謀論も話の邪魔だと言わんばかりに、語ったキャラも殺されるのだけど。

現在の技術の延長線上で見せるリアリティのある未来世界にほんの少しウソを忍び込ませた、住人たちがディストピアと実感しない程度のディストピア。この設定も、一度切りで終わってしまうのは少しもったいない気がするな……。 

更に余談

配役面で嬉しかったのが、久々に見たエリク・ラ・サルの姿。ERのベントン先生だけど、冒頭のクレジットに名前が出るくらいがっつり出るキャラだ。

パトリック・スチュワートはすごく気持ちよさそうに演技をしている。序盤の状況を活かした舞台劇風の声を高らかとあげる演技と、後半の抑制的な、語りかけるような演技、両面の味わえる。妙な言い方だけど、この映画での演技は、プロフェッサーXというよりパトリック・スチュワートそのものだ。

くすっと来たのは、最悪のシーンの直後、手の振り下ろしどころがなくなって車に八つ当たりしまくるローガンと、川の向こうの平和な釣り親父との対比を冷静に見つめるローラ。こういう最悪を笑いに変えるの、ほんと巧いなあと思う。

SFX・VFXの表現も良かった。具体的にはローガンの肉体だ。上半身にばかり筋肉が残り、足が衰えつつある日常の姿。また戦闘の状況や薬の効果によって筋肉の量が目まぐるしく変化し、肉体そのものが、ローガンの心を物語っているようだった。CGIがキャラの気持ちまで表現する。まさに真骨頂だ。

*1:何ユニバースというのかまでは興味がないけど、プロフェッサーXをパトリック・スチュワートが演じるシリーズ

*2:地下鉄道 (秘密結社) - Wikipedia

ウエストワールド シーズン1 - 観ていた景色が崩壊するアンドロイド・サスペンス

Huluで配信中の『ウエストワールド』は、1983年に公開されたマイケル・クライトンの同名映画を翻案した作品。いまの時代、人工知能テーマなんてよっぽど巧く描かないと白けるだろうと思うんだけど、本作はサスペンスとしての仕上がりが凄まじくて目が離せなかった。で、終わってみるとこれ、立派なSFだったと思う。

広大なテーマパーク、ウエストワールドで、人間を楽しませるキャストとして毎日おなじ役割を演じ、記憶がリセットされるアンドロイド。それがあるきっかけから記憶のリセットを免れ、自己同一性を獲得していく。同時にパークの舞台裏で進む奇妙な事態。「その記憶は本当なのか」「自分はアンドロイドなのか人間なのか」そして「アンドロイドは人間と同じ権利を持ってはいけないのか」……あらゆる謎と疑問を抱え込み、物語は進む。

f:id:debabocho:20170601102543j:plainアンドロイドの自由意思を主題に据え、暴力のあふれるハードな物語だけれど、最新科学に基づいたAI描写で驚きを与える、いわゆるハードSFというわけじゃない。原作とおなじ「もしも遊園地のロボットが自我に目覚めたら」という設定に、リアリティのある映像とシリアスな演技でハッタリを加えたものだ。

けれど、その描写が古典的だからといってこのドラマのSFとしての価値が下がるわけじゃない。これまで多くの作品で語られてきた、ロボット・アンドロイド・人工知能の物語の肝ともいえる「外部から設定可能な感情・記憶・意思」という問題を、テレビシリーズとしては驚くほど細やかに描写することで、SFだからこそ表現できる濃密なヒューマニズムを生み出している。

 

主人公のアンドロイドが、正義感の強いヒーローでも、高い身体能力を持った戦闘マシンでもない、西部劇の脇役の女性であることはその象徴だ。人間に従属するアンドロイドであり、西部時代という女性の権利が蔑ろにされる世界の一員を演じることを強要される、二重の意味での抑圧。自我に目覚めた彼女は、次第に自分の意思でその宿命に立ち向かい、自分の追い求めるものを得ようしようとしていく。

最終回、彼女を含め複数のメインキャラたちのプロットが、思いもよらない叙述トリックで一つにまとまる。各キャラがそれぞれ自分の役目、自分の意思を果たし、ひとつの物語をかたちづくる。これがすごい。9話にかけて引っ張ってきた謎、そしてサスペンスがいっきに弾け、その結末には思わずテレビの前で拍手してしまった。

 

SFならではのヒューマニズムも、この最後の巨大なトリックで明確に成立する。彼女たちの求めたものは、本当に自由意思だったのか? その疑問が成立するのであれば、我々人間に、本当に自由意志と言うものは存在するのだろうか?

ロボットをメンテするために、ロボットのように働く人間。プログラムされた西部劇を見て、プログラムされたように笑い楽しむ人間。彼らにアンドロイドを上回る自由意志があったのだろうか? 自由意志がなければ、ヒューマンと呼べないのだろうか? それでは彼女は? 彼女と我々の、違いとは……? アンドロイドを通して、人間とは何かという疑問を投げかけているのだ。それは最終回の興奮の波にのまれ目立たないけれど、確かに胸に届いていた。

良質なサスペンスを確固たるものとするのは、このSFならではの、今まで信じてきた世界の崩壊する感覚だ。何に拍手したって、ここに拍手した。よいSFだった。

 

ところでこれ、きれいに終わってしまったけど、シーズン2はどうするんだろう? おまけシーンを見るに、『エイリアン2』よろしく「今度は戦争だ!」とでも言うんだろうか。