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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

初代ガンダムにおける「戦争」は何の比喩だったのかという思いつきのひとつ

端的にいうと、あのテレビシリーズで描かれた戦場には、富野由悠季という作家の経験したアニメの「仕事」が、そのまま落とし込まれているように思えてならない。

 

f:id:debabocho:20190702185108j:plainいちばんさいしょの『機動戦士ガンダム』(1979年)は、ロボットアニメという枠で人間同士の戦争、戦場を描いた“リアル”なドラマだったけれど、そのリアリティは、富野監督や制作に関わった人々が、まだ第二次大戦を経験的に知ることのできる世代だったからだ、とよく言われる。

でも、あの人間描写、あの劇から感じる息遣いは、実際の戦場のそれだけだったのだろうか? あるとき富野氏のエッセイを読んでいてふと思ったのだ。実はあのリアリズムは、彼がアニメの仕事で経験し、成長してきた感覚の、敷衍じゃなかろうか?

アムロの成長のリアリティ

映画版では物語が圧縮されてあまり感じられないのだけれど、テレビシリーズを連続してみると本当に思うのだ。あのアムロ少年の“成長”とは、企業で仕事を任されてしまったときに感じるそれに、すごく近いと。

本当にやりたいこととは違う仕事に、巻き込まれるように従事し、右も左もわからないなか手をうごかしたら、意外とうまくできてしまった。で、ほかに出来る人もいないし、やるしかなくて必死にやっていくだけ……。途中で逃げ出したくなったり、体が動かなくなったり、人間関係で思い悩むけど、それでもいつしか、この仕事を一番うまくできるのは自分なんだ、自分がこの仕事を成功に導くんだという自負が生まれていく。

それは、映画志望だった富野氏がアニメ業界というワイルドな仕事環境に足を踏み入れ、その中で必死に仕事をしてきた経験の投影だったんじゃないかと思うわけ。

 

ニュータイプ」というのも、その延長線上にある気がする。

ある仕事に取り組み、スキルレベルやマネジメントレベルという言葉では言い表せられない、何かしらの対応度みたいなものがあがっていくと、あるとき状況への洞察が高まるあまり、まるで自分の後ろの席でいま何が起こっているのかまで見通せるような、万能感に似た感覚を覚えることがある。「あ、すっげー仕事できてる!」と思える一瞬。

SF的な「人類の進化」とか、『かもめのジョナサン』的なニューエイジ思想で語られるニュータイプという表現は、原点は、そんなちょっとした万能感であって、SF的・神秘的な「刻が見える」演出は、その感覚をうまくとらえて劇的にしたものじゃなかろうか。

じゃあシャアはなんなのか

一時期、アムロのライバルのシャアをビジネスの文脈で持ち上げて、理想の上司だとか、シャアから学ぶ何とかみたいのが流行ったけれど、実際ガンダムを通して見ると、圧倒的にリアルで共感できるのはアムロの成長だ。

むしろシャアなんて最初から仮面かぶった王子様だし、生き別れの妹が敵方にいるし、左遷されたかと思えば都合よくもどってくるし、これは戦場の少年兵たち(=職場の青年たち)というモダンな群像劇に、古典的な起伏のある「劇」を持ち込みドラマを転がすために作られた夢キャラとしか思えない。そんなキャラが生っぽいせりふを言うからギャップで共感できるし、不自由な会社の中で自由勝手にできるハンサムガイという願望のつまった夢キャラだからこそ、ビジネスでも理想のロールモデルになる。

続編で情けないキャラになったと言われるのも当然で、1作品の作劇の道具として作られたキャラだったのに、続編によって作品内にリアルな時の流れが生まれて、その中に落とし込まれ無理にも身体性を与えられれば、そうもなろうよ、という話だ。群像劇の仲間にはいるのなら、情けなさを強調されて、正解なのだ。

戦争と日常

カッコいいロボットの戦闘を楽しむアニメでありながら、リアルな戦争と人間を描いたと言われ、その二律背反こそがガンダムを傑作としているんだろう。ただ、いまでもそれが傑作であるのは、そこにあった人間劇が「戦争」という極限に限られたものではなく、「日常の労働」という普遍的な、だれもが共感しうるものであったからじゃなかろうか。

 

シリーズの後半、あるエピソードに、アムロたちが長く大きな戦闘を生き延び、疲れ切ってみな泥のように眠っておわる物語がある*1。あれを見たとき、すごく不思議な感覚を得た。描かれた結末は、すごくリアルな“戦争”だと思えたのに、同時に、すごくリアルな“仕事の現場”だと感じられたのだ。巨大な案件を乗り切り、へとへとになって帰った、あの夜のような。

そして、想いを糺した。戦争、出兵というのも、生身の人間の人生においては、日常の延長線上に起こるものなのだ。そこで行われる営みも、非日常のスペシャルなもの、ヒロイックなものではなく、とても日常的なものであるのだ。そして、人のいのちを奪いあう状況が日常の一部として発生することこそ、もっとも恐れ唾棄すべきものなのだと。

*1:第36話『恐怖!機動ビグ・ザム

ヨガ雑感

いま日曜の13時。ヨガをやってきた。コギャルと即身仏のあいの子みたいな先生なんだあれむっちゃハードだな。前回と同じ初歩コースなのにお説教少なめなぶんバッキバキにストレッチされたわ。


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しかし前回、つまりこのヨガスクールに入って第1回目のほうは、商売という意味である意味面白かった。その先生はレクチャー中ずーっとベラベラヨガの思想面、つまりいかに心を癒やすのか、という点を語っていたのだ。今回もある程度語ったが、心にもう一人の自分を持って観察せよとか、前後で心の有り様を注目せよとか、ポーズ作るのも無理をするな自分に意地を張るなとかそんなこと。

これを聞いて、ははあ、なるほどヨガは勝ったのだと身にしみてわかった。体を治すのであれば、現代ヨガがニューヨークに生まれる前から当地ではいろんな女性向けストレッチや体操講座があったわけだ(ドラマ『マーベラス・ミス・メイゼル』に出てくる謎の婦人体操とか、面白い)。エアロビクスだのタイボーだの、それぞれ今もやり込み続けられる深さを持っている。

でも、ヨガはその目的、存在意義を明確に「体ではなく心をつくる」と定義した。ごく恣意的な定義ひとつで競合ひしめく体操マーケットから抜け出し、「エクササイズ界のナンバーワン」でなく「ヨガ。オンリーワン」という価値を纏ってしまった。マーケティングの勝利、プロモーションの勝利だ。

 

インストラクターの人たちはたぶんそんなこと1ミリも考えずにそれぞれ求道の心でヨガをやっているんだろうが、まあハックされたわけ。心を。地球ぜんたいそう。ヨガ体操のマーケティングワンアンドオンリーの価値を打ち立て地球に君臨し、この先かなり長いあいだ、人類の文化のひとつとして存続するだろう。

そんなことが、レクチャーのあとの瞑想タイムに湧いてくるのだ。何が心を無にしろだよ思い浮かぶのはカネ・カネ・仕事。結局どう儲けるか。はーやだやだ。

映画『ウィンストン・チャーチル』見せたいものは何だったのかというはなし。

2018年度作品賞ノミネートの1作『ウィンストン・チャーチル / ヒトラーから世界を救った男』。観終わってみれば、なんともちぐはぐだったなあ、という思いが残る。あの演説で、すごく感動したかったのに、うまく感動できなかった。なんでだろう?

 

f:id:debabocho:20180331215127j:plain原題 Darkest Hour の指し示す通り、本作はフランスがナチスドイツに大敗して始まる英国の最悪の時期に首相となった彼が、自らの心の闇を払い、ダンケルクの演説に至るまでの1か月あまりを描く。

有能な政治家とはいえ失敗も重ね、回りは与党も野党も敵だらけ。さらに全体主義への徹底抗戦の意志をくじくがごとく、欧州大陸で最悪の事態が始まる。その瞬間、彼が何を思い、何を知り、何を決断して、あの大演説に至ったか……。そりゃあドラマだ。

ところが、実際盛り上がるはずなのに、なぜか心がついていかない。

シーンは良いのに物語にならない

シーンのひとつひとつはどれも良い。チャーチルの強さ、傲慢さ、繊細さ、小心さ、やさしさ、無神経さ……。演じるゲイリー・オールドマンの徹底したキャラづくりで、彼のいろんな側面が見えてくる。のしかかる状況の描写も巧い。ルーズベルト大統領との電話で、チャーチルが夜中に英国の現実を独り噛み締めるシーンは、実に見事だった。

でも、それが全体の物語としてうまく噛み合っているかというと、率直に、疑問だ。男の3週間にわたる感情の動きを追う、1本のうねりを伴った物語として、各シーンが繋がってこない。良質ではあるが、伝記の再現ドラマをバラバラとコラージュしただけのようだ。

じゃあ、バラバラであるがゆえにチャーチルの全体像が伝わってきたか、というと、そういうわけでもない。物語の葛藤をチェンバレンら対独融和勢力との対立に置いているんだけど、それを見せようとするあまりか、一貫して彼が不器用で頑固な傍流政治家に見えてくる。本来あったはずの異能にして有能な彼の姿はどこいったんだ。見えてくるのはオールドマンの演技、表現の巧みさであって、一人の歴史上の人物の表現としては、なにか欠けていたような気がする。

人物が伝わってこないといえば、国王ジョージ6世もだ。彼は物語上チャーチルをクライマックスへと導くキーマンなのに、彼の心が最後にどう動いたのか、それが明快に伝わってこないから、物語のターニングポイントに合理性を伴った重みが感じられない。

物語をつなぎとめたもの

ただ、そんなちぐはぐなシーンの連続も、所々で入る、ある特徴的なカットのおかげで救われている。ひとつは、自動車に乗ったチャーチルの視点という形で写される、様々なロンドン市民の横顔。長いパン撮影で、当世の人々の生活を細やかに映し出していく。もうひとつは、飛行機からの視点、神の視点で、地上を動く難民や兵士を映し出していく、同じく長いカット。

常にチャーチルの近辺5mの会話を映し続ける映画が、このカットだけ、声を排し、世界を映し出す。そしてラスト直前、チャーチルが、今まで眺めるだけだった「人々」と接することで、彼は葛藤を乗り越えるのだ。特殊メイクと迫真の演技だけではない、この手法こそが、映画を1本の映画たらしめる鍵だったと思う。

 

やりたいことはすごくわかる。すべてがぴたりとハマれば、最後の演説はものすごい大感動になっていたろう。だけど、あと1歩、自分の心がそこに向かわなかった。

結局何だったんだろうと思うと、ゲイリー・オールドマンの演技が、勝ちすぎていたんじゃなかろうか。特殊メイクで、彼はチャーチルというキャラになりきろうとした。そんな彼の演技を見せたいがために作られたシーンの連続は、結果的に、チャーチルという人間を表現しきれなかった。そう思う。

 

さいごに。もしこの映画がNetflixで配信されることがあるなら、劇が終わって暗転したらすぐに『ダンケルク』につながるようにしてあげてください。歴史劇の最高の楽しみかただと思う。