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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

映画:コンクリート・ユートピア - 崩壊後のソウルに、なぜ日本語が聞こえたのか

『コンクリートユートピア』は、ソウルを舞台にしたディザスター映画、より正確には「ディザスター後」を描く映画だ。この映画は、『マッドマックス:怒りのデスロード』の前日譚ではないか? 映画を観ながらそんなことを思っていた。

 

ディストピアへの道

突如起こった天災で都市機能が完全に崩壊。そんななか1棟だけ残った高層アパートの住人たちが、自分たちの生活を維持するために必死の努力を始める。その果てに何があるのかを描き出すのが、この映画だ。彼らはリーダーを決め、統率を取り、食料の確保と配分の仕組みを整える。自分たちの生存を脅かす外部の人間から身を守り、社会を乱す裏切者を排除していく……。

 

結果的に彼らが推し進めたことは、非人道的な方法論も許容する秩序の構築、外的への憎悪、リーダーの絶対的な崇拝、恐怖による支配だ。それって要は、『マッドマックス』のポスト・アポカリプス社会じゃないか。アパートのリーダーを演じるイ・ビョンホンの歪んだ笑顔は、イモータン・ジョーに通じる。

 

しかしこの映画のテーマは、それが特異な統率者によってなされるのではなく、普通の人々の、消極的な善意によって作られてしまうという恐怖だ。いわゆる「凡庸な悪」が社会を包み込んでいく様を描いている。映画にはマックスもフュリオサも登場しない。ただ、ささやかな抵抗を試みた僅かな人々がすり潰され、最後には何もかもが崩壊する様を描く。

 

映画としての問題は、この崩壊の行程がまさに凡庸であったことだ。アパートの住民がなす悪は、ああ、こういう状況ならこうなるよね、というモノが多く、物語としての飛躍がない。また、イ・ビョンホンの正体についても、リアルな社会問題に根付いたものである分、ミステリーとしてのスリリングさを欠いているところがある。

 

巨大な災害の中で立ち上がる状況を、アパート1棟のミクロな環境に落とし込んで描く方法論は面白いし、そのディティールには目を見張るものがある。ただ、リアルであるがゆえ、ストーリーがいまいち平凡に感じられてしまうのだ。

 

なぜ日本語が?

さて、この映画の中盤で、唐突に日本語が聞こえてくるシーンがある。アパートのある部屋に住む寝たきりの老婆の台詞だ。不明瞭な台詞で、私も「あれ、これ日本語かな?」と思った程度だったが、終盤再び老婆が現れる混乱したシーンで、唐突に「だれか日本語わかるか?」という字幕が乗っていたことから確信を得た。群衆の声が飛び交うシーンで、わざわざその台詞を訳出したということは、翻訳者もその台詞に意味があると考えたのだと思う。

 

物語上で明らかになるが、この老婆の息子は、詐欺的なビジネスに加担しているという設定になっている。これは何を表現しているのか? 

 

ここでふと、うすら寒い記憶がよみがえった。学生の頃(20年以上前だ)ソウルに数か月滞在していて、現地の人たちとの会話から思いがけず知ったことだが、一部の韓国人には、韓国にやってくる在日韓国人は何か怪しげな商売をやっている、というステレオタイプ的な見方があるようなのだ。

 

すると、映画に出てきた老婆は韓国に戻ってきた在日1世か2世で、その息子は悪事に手を染めていた、ということなんだろう。

 

移住で地縁・血縁の薄れた在日の人たちが、再移民先の韓国で身を立てるために現地で”普通の仕事”(大企業勤めとか、公務員とか、信用必須の個人事業とか)以外の事業をせざるを得ない状況は当然あるだろう。これは日韓にかかわらずあらゆる移民社会で起こる二重差別の構造なのだけど、そんなものが2020年代の映画にポンと出てきて、それに気づいた時には少々面食らったし、安易ではないかとも思った。

 

一方で、映画の言わんとしているところもわかる。現代韓国の高層アパートとは、古くからの地縁血縁に強く依存した社会ではなく、多様な者を内包した共同体であるということを、この映画は在日の老婆に託して語っているのだろう。映画ではこのほかにも方言の強いキャラがいたりして、団地住人の多様性への目くばせがある。

 

つまるところ、この在日の老婆は、本来的な意味で高層アパートが実現すべきだった「ユートピア」の欠片なのだ。社会的な因習から人々を解放し、様々な人々を許容して内包するひとつの共同体。ただし、そこに住む資格さえ得られれば。

 

韓国社会の抱える様々な矛盾と課題を、この映画は災害に託して暴き立てる。韓国映画って本当にこういうのが上手いと思う。

 

ディザスター映画としてみると今一歩ハマり切れなかった本作だが、ディティールをひとつひとつ読み込んでいくと、そこに描かれる多層的なメッセージには目を見張るものがある。この映画は、巨大な災害や戦争による社会変容と隣り合わせとなってしまった21世紀の社会で、エンタメとして消化するのではなく、モラルの糧として胸にしまっておくべき作品ではないのかと思った。我々は、こうはなるまい、と。

なぜ彼らはこうも明るいのか - スター・トレック:ストレンジ・ニュー・ワールド 1-1話

彼らは明るい。『スター・トレック:ストレンンジ・ニュー・ワールド』のプレミアエピソードを観ての第一印象だ。新生エンタープライズの乗組員たち――設定的には、初代『宇宙大作戦』のエンタープライズの前任クルー――は、みな明るく、笑顔を絶やさない。もちろんパイク船長やラアンのような暗い過去を追ったキャラもいるが、それでも皆自信に満ち溢れ、まっすぐ前を向いているように見える。

 

ストレンジ・ニュー・ワールド ブリッジクルー

そもそも、1966年に放送が始まった最初のスタートレック、『宇宙大作戦』は、牧歌的な未来像が背景にあった。古典的なスペースオペラ小説の流れを汲み、科学への信頼とともに「カウボーイ的な正義」への信頼が厚かった時代のSFテレビシリーズだ。国家間の争いも貧富の差も人種差別もない、理想的な未来の地球で生まれ育った人々が、宇宙のフロンティアを探検し、自分たちの正義をよりどころに問題を解決していく。

 

だが、時を経てそのような未来描写は、現実にそぐわないものとなっていった。80年代末から放送された『スター・トレック:ザ・ネクストジェネレーション(新スタートレック)』では、60年代のカーク船長のアンチテーゼのように、ピカード艦長が直面する多様な星間外交、政治、倫理問題に思い悩み、眉間にしわを寄せる。複雑な問題を、単純に解決することはできないのだ、というのが通底する価値観だ。その流れを更に継いで、『スター・トレック:ディープ・スペース・ナイン』では、シリーズ後半に巨大な星間戦争が勃発し、極限状態での倫理の崩壊が描かれていく。*1

 

そうやって、時代と共に価値観を変化させていったスター・トレックが、50余年の時を経ていま再び、最初の『宇宙大作戦』の直前の世界を描く。とすると、作品世界的には、登場人物は旧作と同じく牧歌的な価値観を持った人々でなければならない。しかしそんなキャラクターは、"いま"の時代にアリなのだろうか? この閉塞感あふれる時代に、なぜ彼らは、自信に満ち溢れ、牧歌的でいられるのか?

 

実はそれこそが、本作第1話の「SF的な価値観の転換」だ。

 

物語では、1世紀に渡って内戦状態にある惑星に囚われてしまったエンタープライズの元乗組員を救出するため、パイク船長らが惑星に降下する。そこで、一触即発の危機にある惑星の市民らに、彼は語りかける。地球人が、こうやって異星人と共に宇宙を自由に飛び回るまでに体験した戦争の歴史を。

 

スター・トレックの長大な物語の中で断片的に描かれてきた、21世紀に起こった優性戦争、第三次大戦といった架空の歴史が、現実の21世紀……米国での(また世界中の)社会分断による対立という状況に直接結びつけられ、いまある惑星連邦と地球の文明は、分断が生み出した第三次大戦からの復興を経て、ようやくもたらされたものだと、明確に語られる。*2

 

そこで気づくのだ。彼らの明るさの根拠を。ストレンジ・ニュー・ワールドに登場する人々、そして宇宙大作戦に登場していた人々は、最悪の歴史を乗り越え、それを繰り返すまいと誓っているからこそ、まっすぐ前を向き、自身に満ちた顔をしているのだ。彼らは種族として、明るくいなければならないのだ。

 

彼らの笑顔は、本作のストーリーの一部、テーマそのものだ。

 

このSFエピソードで視聴者が置くべき視点は、実はエンタープライズ=人類側でなく、彼らの訪問先の未開の異星人にある。物語は訴えかける。いま、このままの社会分断が進めば、スタートレックの人類のように、最悪の事態が待っている。大戦争を経験せず、豊かで明るい未来を作り上げるには、どうすべきなのか。

 

シンプルなメッセージだ。しかし、だからこそ新生スター・トレックの第1話にふさわしい。

 

スター・トレックは、常に人類のあるべき姿を描いてきた。『宇宙大作戦』では牧歌的な未来像を、『新スター・トレック』では物事を単純化せず多様性を受け容れるべき道筋を、直近の『スター・トレックディスカバリー』では、分断された世界で多様性を内面化した人々の力強い団結を。*3

 

そして『ストレンジ・ニュー・ワールド』では、人々が最悪を乗り越えて勝ち取るべき、ごく基本的な、「明るい未来」の姿を示す。分断の時代、不透明な時代にこそ描かれるべき未来。それが、パイク船長たちのエンタープライズだ。

*1:テクニカルには、競合番組である『バビロン5』が星間戦争ネタで成功していたという背景がある

*2:更に言えば、その後の架空史ではジンディやクジン、ロミュラン、クリンゴン等の異星人との大戦争もあったことになっている

*3:スター・トレックのオマージュ作品である『宇宙探査艦オーヴィル』は、実はディスカバリーやストレンジ・ニュー・ワールドの裏返しだ。作品の第3シーズンでは、新スタートレックで示された多様性に満ちた社会が30年経って実現するどころか崩壊しかけている現状に対し、ストレートに怒りをぶつけている。

『ゴジラ -1.0』 - 最後の国産大衆映画 その課題

観終わって最初に思い浮かんだのは、意外とコンパクトに収まったな、という妙な腹落ち感だった。『ゴジラ -1.0』はそのタイトルが示唆するように、戦後の荒野を背景として人々を更に徹底的に叩きのめす、深く昏い怪獣映画になるのではなかろうかと、ほんの少しだけ想像していたのだ。が、この作品は物語として手堅く展開し、ほとんど予定調和に近いエンディングを迎える。「戦後」というものが内包する無尽蔵の物語性を思えば、この怪獣映画がもたらす結末は、ある種控えめさすら感じさせるものだ。

 

シン・ゴジラの轍を踏まない

大戸島のゴジラ

前作『シン・ゴジラ』は、庵野秀明の個人的なビジョンが強く反映された映画で、彼と同じ完成を持つ観客に特に響いた作品だった。その特異性と徹底した内容が功を奏し、かつ「震災」という2010年代の日本人が共有する文脈のおかげで、より多くの観客に受け入れられるヒット作となったのだけれど、映画としてはオフビートであることには変わりない(それは他のゴジラ映画も同じだ)。特撮ファン以外の客層からは、ドラマの単調さやキャラクターへの共感の欠如といった批判も少なくなかった。特に海外では震災という文脈が通じず、それほど成功していない。

 

それ故か、東宝山崎貴監督は異なるアプローチを採用した。彼らは方向性を一新し、前作にないものを前面に出してきた。本作は「戦争を終わらせる」という、強くシンプルなテーマを中心に据え、太平洋戦争を生き延びた人々が、困難な過去からの解放と前進を求める姿を描いている。「怪獣映画」という特殊なジャンル映画でありながら、観客がストーリーの要点を素早くつかみ、スムーズに物語を追えるよう、脚本も演出も注意が払われている。

 

映画はNHK連続テレビ小説さながらの戦後の復興物語を主軸とし、テレビや邦画で見慣れた安心感のある演技、演出、美術がつけられている。役者たちは「俺たちの戦争は終わったのか」と、テーマをセリフとして直接説明する。こういった方法論は、海外の映画やドラマと比してとかくクオリティの高低で語られがちだが、そうは思わない。映像作品は各国100年の伝統のある文化なのだ。各国それぞれで作法や技術があり、また「作品の観方」も異なる。本作は日本的な映画の方法論に親しい最大多数の観客に対し、最適なアプローチが取られている。

 

加えて、特撮ファンへの人々への目くばせも忘れていない。監督固有のVFXのノウハウを注ぎ込んで作られた、その筋の人たちなら興奮間違いなしの怪獣と旧軍兵器のハイパーディティールがある。また「人を殺すゴジラ」を描きつつも、その表現はハリウッド映画同様配慮が行き届き、観客は過剰な不快感を覚えることなく楽しめる。

 

これは凄いことなのだと思う。山崎貴監督の強みとする部分をすべてまとめて、「キチっと耳を揃えてお出しした」という感じがする。物語は妙な方向に暴走することなく、落とすべきところにストンと落ちてまとまる。これはオフビートな怪獣映画とは一線を画す、2023年の日本映画業界ができうる最先端かつ最大の、大衆映画なのだ。

 

そして、私は怪獣ファンでもミリタリーマニアでもない普通の女性映画ファンが、「もう一度観に行こう」と言っているのを耳にしている。この映画は確かに、届いている。

 

 

だからこそ、だ。本作は、これでよかったのだろうかという思いが頭をもたげてくる。

 

いや良いか悪いかで言えば『ゴジラ対ヘドラ』も『ファイナルウォーズ』もエメリッヒ版もあるのだから何だって良いに決まっている。ゴジラは自由だ。しかし、2023年の国産大衆映画として、また『シン・ゴジラ』に次ぐ7年ぶりのゴジラとして、『ゴジラ -1.0』の解像度は、適切だったのだろうか?

 

私が問題に感じた部分は、おおきく2つある。

 

2023年に戦争を描くこと

ひとつめ。全編通して違和感を拭いきれなかったのが、本作の戦争・戦後への向き合い方だ。

 

エンターテイメント映画として、戦争、そして戦後という状況がある程度戯画的に描かれるのは致し方ない。とはいえ、いま21世紀を生きる我々にとって、この戦争の描かれ方はいささか安易すぎるのではないか?

 

主人公たちは政府に利用され、無意味な戦争を強制されてきたことに強い反発を持っている。今回はゴジラという”侵略者”に立ち向かうことで、真に価値ある戦い、平和を得るための戦いをしようと決意する。かつて自分たちと同じように無為に戦わされた兵器たちを従えて。

 

確かに、そこには明確な反戦のメッセージがある。我々は、その力をより正しいことのために使えるのだ。平和と善を、積極的に選択することができるのだ、と。

 

しかし、間違った戦争の代償行為として、ゴジラに「正しい戦争」を挑むという構図は、それもまた、肥大化した自我の発露ではないのか? かつて侵略の手先と使われた海軍の船たちが、今度は本当に善を為すために使われる。その迷いのないヒロイズムに、危うさを感じてしまう。

 

戦争、また戦後には、掘り下げるべき多くの側面がある。戦争における個々の選択、運命、矛盾。そしてその結果がもたらす深い悲哀。しかし本作はその表面をなでるだけで、本来あるべき多層的な理解を阻害している。エンタメだからそれでいい、とは私は思わない。例えば、2023年においては既に時代遅れになりつつあるマーヴェルの大作『アヴェンジャーズ』だって、正義のあり方についてもう少し深い思索を盛り込んでいたはずだ。それがあったからこそ、あれほどのブームを生み出すことができたのではないか。

 

本作は、怪獣という巨大な”現象”と、個人の人生の物語を巧みに結び付けている。しかし、パーソナルな物語としてしまったがゆえに、広がりを持たせるべき視点や深い葛藤を省略してしまっている。率直に言えば、その結果としての反戦メッセージは、過去のシンプルなイズムにとらわれてしまった反戦運動と同じような軽薄さがあり、ともすれば、過去の大東亜共栄圏のような理念の正当化と変わりがないように思える。その単純化された描写には、エンタメとはいえ今一度立ち止まって考える点があるのではなかろうか。

 

ゴジラ」のキャラクター性

ふたつめ。より深刻なのは、一つ目の問題によって引き起こされる、キャラクターとしてのゴジラの希薄化だ。

 

ゴジラといわずあらゆる怪獣は、何かの象徴だ。原爆の恐怖(初代ゴジラ)肥大化したバブル期日本のなれの果て(メカキングギドラ)、地震津波原子力災害の犠牲者の怨念(シン・ゴジラ)。あるいはもっと単純に、悪い怪獣とプロレスをやる正義のヒーロー。怪獣は文明を破壊する自然災害的な側面に、込められた比喩から生じた「キャラクター」としての個性が同居しており、観客は映画の登場人物に共感すると同時に、怪獣自体にも感情移入し、その中に物語を見つける。

 

では、今作のゴジラはどうか。何の比喩かは言うまでもない、戦争そのものだ。主人公たちが逃れようとしてもなお追ってくる、戦後のゼロをマイナスに引き戻そうとする戦争の怨念。しかし、そのキャラクター性は、物語の中で発揮されていただろうか? 我々は、このゴジラに共感できただろうか?

 

確かに、今回のゴジラの造形……人間を直接にらみつける目、人を追い、踏みつける巨大な脚は、逃れられない戦争の恐怖の体現だ。一方、このゴジラには物語がついていない。

 

それは、何の予兆もなく、ただ「大戸島の伝説の生き物だ!」という解説だけで登場し、その後主人公たちの物語の幕間にいつのまにやら被爆・巨大化、そして縄張りを拡大させ東京に登場する。その行動にはキャラクターとしてのプロットがない。また、画面に登場する際も「人間からの視点」が強く意識されており、逆に神の視点=ゴジラの視点での描写は排除されている。

 

なぜか? 観客に、ゴジラに感情移入されては困るからだ。

 

先に述べた通り、本作は、戦争にひどい目に遭った主人公が、改めて対ゴジラと対峙し、自分自身の人生を勝ち取る物語だ。とすると、ゴジラ自身に憎悪や悲哀の感情、あるいは神性のようなものを表現させ、観客がそこに共感を感じてしまったら、主人公が心おきなく戦い、打ち勝つことができなくなってしまう。

 

これが本物の戦争映画であれば、主人公が銃を向けた米兵には、恐怖の感情が浮かんだことだろう。それが主人公に葛藤を与え、人間性をめぐる成長が描かれたはずだ。しかし本作では、そのような複雑性は排除されている。本作のゴジラはキャラクターでなく、徹底して単なるケモノ、人間を描くための障害物でなければならないのだ*1

 

つきつめれば、大衆映画としてシンプルなテーマに拘ったが故に、ゴジラ"自身"の魅力が減じ、「怪獣映画」である意味が縮退してしまっている。その矛盾こそが、本作のもっとも大きな問題だと感じる。

 

 

これが最後の一作とは思えない

と、でっかい文句を二つも書いたが、やはり山崎貴監督は優れた映画作家だと思うのだ。映画は芸術であり、産業だ。スタッフ一人ひとりの専門性を活かし、限られた資源の中でその価値を最大限に引き出すことが求められる。監督はそれができている。

 

本作で印象的だったのが、戦争直後の闇市や破壊された銀座で、主人公たちを捉えるカメラワークだ。すーっと動くカメラに映る情景はCGIを駆使してリアルに奥行きが出されているが、役者がフレームにぴたっと収まると、その構図、美術、ライティングに至るまで、昔ながらの邦画や国産TVドラマを彷彿とさせる画に収まる。

 

VFX作家である監督は、実写パートでは、スタッフの熟練した職人技を信頼し、またある意味コストパフォーマンス良く作ることで、CGIで映像の世界をスケールアップさせることに専念しているようだ。単に多くの観客に響く脚本を書くだけではなく、日本映画の伝統的な手法を肯定し、トータルで「日本ならではのブロックバスター映画」を実現している。

 

それでもなお、私は映画に進化を求める。エンタメのブロックバスターであっても、テーマを更に深め、複雑化させた作品を観たい。VFXだけでなく、美術、ライティング、演技に新しい風を吹き込むような作品を期待している。

 

そして、もしこの作品が日本の大衆映画の終章となるのであれば、それは新しい始まりの予兆ともなるはずだ。次のゴジラが、新しい可能性を秘めた世界に進んでいくことを、心から願っている。

 

余談:音楽が良い

本作、音楽の使い方は素晴らしかった。ありがちな「感動の場面では感動をとことん盛り上げる曲」といった使い方をせず、外画のようにきちんとシーンに合わせ、邪魔にならないように流れてくれる。

 

まただからこそ、劇中高らかと鳴るゴジラのテーマ曲が効いてきた。いや、正直最初の上陸シーンでテーマが流れたときはちょっと演出の方が浮ついていて困ったが(むしろテーマ曲が終わり、原爆雲のあたりからゾワっとした)、クライマックスに曲がかかったときは、さすがに滾った。やー戦争の描き方云々いいましたが、それはそれとして熱くなるものはあるわけで。『インディペンデンス・デイ』大好きだし。

 

余談:プロットもうちょっと繋がらんかね

本作の演出や脚本には個人的な不満があれど、そういうモノだという腹落ち感は得ている。しかしやっぱり気になるのがプロットの整合性だ。描きたいシーンを描こうとするあまり、その間のキャラクターの行動ロジックが抜け落ち整合しなくなっている場面がまま感じられた(え、結婚してない? え、その状況で銀座行かせちゃう?)。

 

あとクライマックス、あれだけの船のもやい結ぶのに10時間ぐらいかかるんじゃねーの ?? ゴジラ復活しちゃうよ! だいたい震電、燃料槽も爆弾に替えたのにどんだけ飛び続けられるんだ。あそこの時間を無視したリアリティのなさはちょっと萎えた。まあそれを言いだしたらハリウッド映画かて大概だけど。

 

余談:女性の扱い

現代の視点で戦争の描き方を批判したので、それと類する批判を重ねる必要は無いと思うんだけど、女性キャラ2人、さすがに安易というか、便利に使いすぎじゃないですかね。

あとね、3歳に満たない子供を寝かしつけたままそっと抜け出すという描写は心底殴り倒したくなったよ。例え疑似家族であっても、そんな親がどこにいるか! 朝起きたときの子供のパニックを想えよ! あんなにきれいにお隣さんちに書類持って来ねえよ! 根本的な想像力の問題。

 

余談:復活させるな

本作、手堅いテーマで綺麗に終わったからこそ、最後の逆余韻で不穏さを残す描写を見せつける必要はなかったと、心底思う。原爆症とか考えずに、幸せに、スッキリ終わらせてやれや! あとゴジラもあそこまできれいに倒されたんだから、復活させようとすんな! 作品は作品として世界を閉じさせてやってくれ! これが最後の不満。

*1:だからこそ、最後の突然の敬礼にはとても違和感があった