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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『ゴジラ -1.0』 - 最後の国産大衆映画 その課題

観終わって最初に思い浮かんだのは、意外とコンパクトに収まったな、という妙な腹落ち感だった。『ゴジラ -1.0』はそのタイトルが示唆するように、戦後の荒野を背景として人々を更に徹底的に叩きのめす、深く昏い怪獣映画になるのではなかろうかと、ほんの少しだけ想像していたのだ。が、この作品は物語として手堅く展開し、ほとんど予定調和に近いエンディングを迎える。「戦後」というものが内包する無尽蔵の物語性を思えば、この怪獣映画がもたらす結末は、ある種控えめさすら感じさせるものだ。

 

シン・ゴジラの轍を踏まない

大戸島のゴジラ

前作『シン・ゴジラ』は、庵野秀明の個人的なビジョンが強く反映された映画で、彼と同じ完成を持つ観客に特に響いた作品だった。その特異性と徹底した内容が功を奏し、かつ「震災」という2010年代の日本人が共有する文脈のおかげで、より多くの観客に受け入れられるヒット作となったのだけれど、映画としてはオフビートであることには変わりない(それは他のゴジラ映画も同じだ)。特撮ファン以外の客層からは、ドラマの単調さやキャラクターへの共感の欠如といった批判も少なくなかった。特に海外では震災という文脈が通じず、それほど成功していない。

 

それ故か、東宝山崎貴監督は異なるアプローチを採用した。彼らは方向性を一新し、前作にないものを前面に出してきた。本作は「戦争を終わらせる」という、強くシンプルなテーマを中心に据え、太平洋戦争を生き延びた人々が、困難な過去からの解放と前進を求める姿を描いている。「怪獣映画」という特殊なジャンル映画でありながら、観客がストーリーの要点を素早くつかみ、スムーズに物語を追えるよう、脚本も演出も注意が払われている。

 

映画はNHK連続テレビ小説さながらの戦後の復興物語を主軸とし、テレビや邦画で見慣れた安心感のある演技、演出、美術がつけられている。役者たちは「俺たちの戦争は終わったのか」と、テーマをセリフとして直接説明する。こういった方法論は、海外の映画やドラマと比してとかくクオリティの高低で語られがちだが、そうは思わない。映像作品は各国100年の伝統のある文化なのだ。各国それぞれで作法や技術があり、また「作品の観方」も異なる。本作は日本的な映画の方法論に親しい最大多数の観客に対し、最適なアプローチが取られている。

 

加えて、特撮ファンへの人々への目くばせも忘れていない。監督固有のVFXのノウハウを注ぎ込んで作られた、その筋の人たちなら興奮間違いなしの怪獣と旧軍兵器のハイパーディティールがある。また「人を殺すゴジラ」を描きつつも、その表現はハリウッド映画同様配慮が行き届き、観客は過剰な不快感を覚えることなく楽しめる。

 

これは凄いことなのだと思う。山崎貴監督の強みとする部分をすべてまとめて、「キチっと耳を揃えてお出しした」という感じがする。物語は妙な方向に暴走することなく、落とすべきところにストンと落ちてまとまる。これはオフビートな怪獣映画とは一線を画す、2023年の日本映画業界ができうる最先端かつ最大の、大衆映画なのだ。

 

そして、私は怪獣ファンでもミリタリーマニアでもない普通の女性映画ファンが、「もう一度観に行こう」と言っているのを耳にしている。この映画は確かに、届いている。

 

 

だからこそ、だ。本作は、これでよかったのだろうかという思いが頭をもたげてくる。

 

いや良いか悪いかで言えば『ゴジラ対ヘドラ』も『ファイナルウォーズ』もエメリッヒ版もあるのだから何だって良いに決まっている。ゴジラは自由だ。しかし、2023年の国産大衆映画として、また『シン・ゴジラ』に次ぐ7年ぶりのゴジラとして、『ゴジラ -1.0』の解像度は、適切だったのだろうか?

 

私が問題に感じた部分は、おおきく2つある。

 

2023年に戦争を描くこと

ひとつめ。全編通して違和感を拭いきれなかったのが、本作の戦争・戦後への向き合い方だ。

 

エンターテイメント映画として、戦争、そして戦後という状況がある程度戯画的に描かれるのは致し方ない。とはいえ、いま21世紀を生きる我々にとって、この戦争の描かれ方はいささか安易すぎるのではないか?

 

主人公たちは政府に利用され、無意味な戦争を強制されてきたことに強い反発を持っている。今回はゴジラという”侵略者”に立ち向かうことで、真に価値ある戦い、平和を得るための戦いをしようと決意する。かつて自分たちと同じように無為に戦わされた兵器たちを従えて。

 

確かに、そこには明確な反戦のメッセージがある。我々は、その力をより正しいことのために使えるのだ。平和と善を、積極的に選択することができるのだ、と。

 

しかし、間違った戦争の代償行為として、ゴジラに「正しい戦争」を挑むという構図は、それもまた、肥大化した自我の発露ではないのか? かつて侵略の手先と使われた海軍の船たちが、今度は本当に善を為すために使われる。その迷いのないヒロイズムに、危うさを感じてしまう。

 

戦争、また戦後には、掘り下げるべき多くの側面がある。戦争における個々の選択、運命、矛盾。そしてその結果がもたらす深い悲哀。しかし本作はその表面をなでるだけで、本来あるべき多層的な理解を阻害している。エンタメだからそれでいい、とは私は思わない。例えば、2023年においては既に時代遅れになりつつあるマーヴェルの大作『アヴェンジャーズ』だって、正義のあり方についてもう少し深い思索を盛り込んでいたはずだ。それがあったからこそ、あれほどのブームを生み出すことができたのではないか。

 

本作は、怪獣という巨大な”現象”と、個人の人生の物語を巧みに結び付けている。しかし、パーソナルな物語としてしまったがゆえに、広がりを持たせるべき視点や深い葛藤を省略してしまっている。率直に言えば、その結果としての反戦メッセージは、過去のシンプルなイズムにとらわれてしまった反戦運動と同じような軽薄さがあり、ともすれば、過去の大東亜共栄圏のような理念の正当化と変わりがないように思える。その単純化された描写には、エンタメとはいえ今一度立ち止まって考える点があるのではなかろうか。

 

ゴジラ」のキャラクター性

ふたつめ。より深刻なのは、一つ目の問題によって引き起こされる、キャラクターとしてのゴジラの希薄化だ。

 

ゴジラといわずあらゆる怪獣は、何かの象徴だ。原爆の恐怖(初代ゴジラ)肥大化したバブル期日本のなれの果て(メカキングギドラ)、地震津波原子力災害の犠牲者の怨念(シン・ゴジラ)。あるいはもっと単純に、悪い怪獣とプロレスをやる正義のヒーロー。怪獣は文明を破壊する自然災害的な側面に、込められた比喩から生じた「キャラクター」としての個性が同居しており、観客は映画の登場人物に共感すると同時に、怪獣自体にも感情移入し、その中に物語を見つける。

 

では、今作のゴジラはどうか。何の比喩かは言うまでもない、戦争そのものだ。主人公たちが逃れようとしてもなお追ってくる、戦後のゼロをマイナスに引き戻そうとする戦争の怨念。しかし、そのキャラクター性は、物語の中で発揮されていただろうか? 我々は、このゴジラに共感できただろうか?

 

確かに、今回のゴジラの造形……人間を直接にらみつける目、人を追い、踏みつける巨大な脚は、逃れられない戦争の恐怖の体現だ。一方、このゴジラには物語がついていない。

 

それは、何の予兆もなく、ただ「大戸島の伝説の生き物だ!」という解説だけで登場し、その後主人公たちの物語の幕間にいつのまにやら被爆・巨大化、そして縄張りを拡大させ東京に登場する。その行動にはキャラクターとしてのプロットがない。また、画面に登場する際も「人間からの視点」が強く意識されており、逆に神の視点=ゴジラの視点での描写は排除されている。

 

なぜか? 観客に、ゴジラに感情移入されては困るからだ。

 

先に述べた通り、本作は、戦争にひどい目に遭った主人公が、改めて対ゴジラと対峙し、自分自身の人生を勝ち取る物語だ。とすると、ゴジラ自身に憎悪や悲哀の感情、あるいは神性のようなものを表現させ、観客がそこに共感を感じてしまったら、主人公が心おきなく戦い、打ち勝つことができなくなってしまう。

 

これが本物の戦争映画であれば、主人公が銃を向けた米兵には、恐怖の感情が浮かんだことだろう。それが主人公に葛藤を与え、人間性をめぐる成長が描かれたはずだ。しかし本作では、そのような複雑性は排除されている。本作のゴジラはキャラクターでなく、徹底して単なるケモノ、人間を描くための障害物でなければならないのだ*1

 

つきつめれば、大衆映画としてシンプルなテーマに拘ったが故に、ゴジラ"自身"の魅力が減じ、「怪獣映画」である意味が縮退してしまっている。その矛盾こそが、本作のもっとも大きな問題だと感じる。

 

 

これが最後の一作とは思えない

と、でっかい文句を二つも書いたが、やはり山崎貴監督は優れた映画作家だと思うのだ。映画は芸術であり、産業だ。スタッフ一人ひとりの専門性を活かし、限られた資源の中でその価値を最大限に引き出すことが求められる。監督はそれができている。

 

本作で印象的だったのが、戦争直後の闇市や破壊された銀座で、主人公たちを捉えるカメラワークだ。すーっと動くカメラに映る情景はCGIを駆使してリアルに奥行きが出されているが、役者がフレームにぴたっと収まると、その構図、美術、ライティングに至るまで、昔ながらの邦画や国産TVドラマを彷彿とさせる画に収まる。

 

VFX作家である監督は、実写パートでは、スタッフの熟練した職人技を信頼し、またある意味コストパフォーマンス良く作ることで、CGIで映像の世界をスケールアップさせることに専念しているようだ。単に多くの観客に響く脚本を書くだけではなく、日本映画の伝統的な手法を肯定し、トータルで「日本ならではのブロックバスター映画」を実現している。

 

それでもなお、私は映画に進化を求める。エンタメのブロックバスターであっても、テーマを更に深め、複雑化させた作品を観たい。VFXだけでなく、美術、ライティング、演技に新しい風を吹き込むような作品を期待している。

 

そして、もしこの作品が日本の大衆映画の終章となるのであれば、それは新しい始まりの予兆ともなるはずだ。次のゴジラが、新しい可能性を秘めた世界に進んでいくことを、心から願っている。

 

余談:音楽が良い

本作、音楽の使い方は素晴らしかった。ありがちな「感動の場面では感動をとことん盛り上げる曲」といった使い方をせず、外画のようにきちんとシーンに合わせ、邪魔にならないように流れてくれる。

 

まただからこそ、劇中高らかと鳴るゴジラのテーマ曲が効いてきた。いや、正直最初の上陸シーンでテーマが流れたときはちょっと演出の方が浮ついていて困ったが(むしろテーマ曲が終わり、原爆雲のあたりからゾワっとした)、クライマックスに曲がかかったときは、さすがに滾った。やー戦争の描き方云々いいましたが、それはそれとして熱くなるものはあるわけで。『インディペンデンス・デイ』大好きだし。

 

余談:プロットもうちょっと繋がらんかね

本作の演出や脚本には個人的な不満があれど、そういうモノだという腹落ち感は得ている。しかしやっぱり気になるのがプロットの整合性だ。描きたいシーンを描こうとするあまり、その間のキャラクターの行動ロジックが抜け落ち整合しなくなっている場面がまま感じられた(え、結婚してない? え、その状況で銀座行かせちゃう?)。

 

あとクライマックス、あれだけの船のもやい結ぶのに10時間ぐらいかかるんじゃねーの ?? ゴジラ復活しちゃうよ! だいたい震電、燃料槽も爆弾に替えたのにどんだけ飛び続けられるんだ。あそこの時間を無視したリアリティのなさはちょっと萎えた。まあそれを言いだしたらハリウッド映画かて大概だけど。

 

余談:女性の扱い

現代の視点で戦争の描き方を批判したので、それと類する批判を重ねる必要は無いと思うんだけど、女性キャラ2人、さすがに安易というか、便利に使いすぎじゃないですかね。

あとね、3歳に満たない子供を寝かしつけたままそっと抜け出すという描写は心底殴り倒したくなったよ。例え疑似家族であっても、そんな親がどこにいるか! 朝起きたときの子供のパニックを想えよ! あんなにきれいにお隣さんちに書類持って来ねえよ! 根本的な想像力の問題。

 

余談:復活させるな

本作、手堅いテーマで綺麗に終わったからこそ、最後の逆余韻で不穏さを残す描写を見せつける必要はなかったと、心底思う。原爆症とか考えずに、幸せに、スッキリ終わらせてやれや! あとゴジラもあそこまできれいに倒されたんだから、復活させようとすんな! 作品は作品として世界を閉じさせてやってくれ! これが最後の不満。

*1:だからこそ、最後の突然の敬礼にはとても違和感があった

アニメ版『PLUTO』 - この映像化のどこに迷ったのか

PLUTO』の放送がネットフリックスで始まるというニュースを見て、おっと思ったのが、1話約1時間、全8話という構成だった。ケーブル/配信系の海外ドラマでおなじみのミニシリーズ(リミテッドシリーズ)フォーマットじゃん。

 

思い返してみると、浦沢直樹作の原作漫画はミステリー&サスペンスフルな物語だし、リアリズム路線だ。時代が回って海外ドラマのトレンドに合っている。高品位なアニメ作品として、フォーマットも海外ドラマ型に落とし込むのはうまいやり方だ。そんな風に上から目線で考えて観始めたのだった。

 

しかし、エピソードを観進めるにつれ、これは何か違うぞ、という感覚が立ってくる。いや面白いか否かで言えばムチャクチャ面白いのだ。だけど、海外ドラマに使うのと同じ脳みそで本作を観てしまうと、この構成は映像作品として、構成に迷いがあるように思えてしまう。なぜだ。

 

これは、私が映像作品に、何を観て、求めているのかの問題だ。海外ドラマファンをやってきた自分が、なぜこの作品に困惑しているのだろうか?

 

フォーマット故の違和感

プルースト

このドラマに”迷い”のようなものを感じてしまうのは、たとえば菅野祐悟の音楽の使い方だ。

 

本作のサウンドトラックは、物語のドライバーであるケジヒトのディテクティブ・ストーリーに合わせたポップなものに始まり、それがより大きなものに浸食され、終盤の「地球が終わる」規模の大スペクタクルへと昇華させる構成だったのだと想像できる。しかし、その音のスケールアップは、全8話の構成のなかでうまく機能していないように感じた。作品全体のスケールがリニアに大きくなっていかないからだ。

 

ネット配信の隆盛とともに手法が進化したミニシリーズフォーマットは、連続劇というより1本の映画に近い。シリーズ全体でひとつの物語となるよう幕構成を強く意識して各エピソードを設計するのが定石だ。もちろん、通常の映画より長いから相当の自由度があり、技巧の余地も大きい。が、観る側の我々もこの10年で「長い映画」としてのフォーマットにすっかり慣れてしまった。

 

一方、2003年に描かれた浦沢直樹の漫画の面白さは、紙媒体での連載に特化したドライブ感にあった。その物語はある意味、毎回の読者の反応を見ながらのリアクティブなものであったのだと思う。複数のプロットを行ったり来たりして飽きさせないし、突飛なピボットや強引な展開も、先の読めない魅力として働く。しかしこのドライブ感は本来、全8話のミニシリーズの構成とは相いれない。先の読めなさ、ドライブ感は、90年代から流行した24話のクオリティドラマシリーズ*1では重視されたが、ミニシリーズでは更にそれを制御することで、進化してきたからだ。

 

小説なり漫画なり、異なるフォーマットの作品を映像化するにあたり、制作陣はテーマの整理や重みづけ、プロットの取捨選択と改変を行う。たとえば実写版『ワンピース』なんかは、それをやって物語の芯を残し、成功したパターンだろう。ところが『PLUTO』はそれを積極的にしなかった。制作陣は、原作の8巻のコミックスそのままの構成でエピソードをつくる判断をした。

 

故に、全8話のうち7話までが行き先の見えない複雑なプロットのダンスとなり、最後の1話で唐突に「世界が終わる」という大風呂敷を見せて、すべてを回収するという、正直ミニシリーズとしてはアンバランスなものとなってしまっている。音楽に関しても、序盤のポップなゲジヒトのテーマが後半まで繰り返されることとなり、物語が広がっているのか、あるいはパーソナルなままでいるのか、混乱し、迷っているように感じられるてしまうのだ。

 

では、本作は全8話のミニシリーズとして、構成を見直すべきではなかったのか? もっと物語を整理すれば、より伝わる作品になったのではないか?

 

……困ったことに、「見直さなくてよかった」と答える自分がいる。このドラマをではハリウッド型のミニシリーズフォーマットでプロットを整理・補完し、徐々に謎が解けてゆくスマートな構成に改編したら巧くいったかというと、そんな気は全然しない。そうすることが、面白さに直結しない。

 

 

面白さの核心

PLUTO』の面白さは、「憎悪」というテーマに対し、全てのキャラクターが等しくひれ伏し、涙するところにあると思う。物語を動かすための機能的キャラクターは、僅かの例外を除いて存在しない。人も、ロボットも、敵も味方もみな、作品世界の中で生きている。そこで憎悪に直面し、うろたえ、泣く。謎めいた天満博士も、敵役のアドラーも、それぞれが憎悪に直面し、苦しみ、また共感し、涙を流す。

 

そのままならなさを見せつけること、ある意味メロドラマ的な「泣かせ」こそが作品の力点であり、本質なのだ。ミステリーを解くことを目的としてしまってプロットを整理したのでは、全編を覆う作品の魅力が消えてしまう。日本のアニメ作品として、米国の(およびその影響を受けた世界の)実写TVシリーズで確立している「勝ち筋」プロット設計から敢えて離れ、アンバランスさを内包したまま、憎悪とは何か、人間とは何かを描くことで、ストレートに感動が伝わる。

 

いや、天才的な脚本家によって、魅力を消さずにプロットの完成度を上げることもできたかもしれないが、そんな賭けはリスクが大きすぎるだろう。既に手塚治虫という天才の作った物語を浦沢直樹という別種の天才が翻案した作品なのだ。3人目の天才に恵まれる確率は限りなく低い。『PLUTO』は米国での実写化が先に検討され、巧くいかなかったと聞くが、むべなるかな、だ。実写化すれば、どうしても実写の解像度でシナリオも美術も演技も再構築せざるを得ない。

 

 

ここに至って思う。自分も海外ドラマに慣らされすぎてしまっているな。グローバル化した配信プラットフォームの中にあっても、『PLUTO』は日本の漫画であり、アニメなのだ。それを維持することに価値があるのだ。優秀な声優の演技とアニメーション技術に支えられ、『PLUTO』はそのテーマを伝えることに、見事に成功している。

 

 

余談:国際問題とテクノロジーの時代性

2003年に連載が始まった『PLUTO』がモチーフにしたのは、言うまでもなく大量破壊兵器を巡るイラク戦争の顛末であるけれど、そのアニメ化の企画が数年単位で進み、いま、2023年10月にリリースされた巡り合わせを想うと、これはちょっとした奇跡だと思う。既に2年続くウクライナ戦争に加え、イスラエル軍パレスチナ進行が始まったいま、「戦火の下で犠牲に苦しむ無辜の人々」に対し、これほどまでに生々しく共感できるタイミングはない。

 

人間臭いキャラぞろいの本作における僅かの外れ値、「物語機能的なキャラクター」は、トラキアアメリカ大統領だ*2。彼だけが物語の外側で、薄っぺらい悪役として描かれている。が、安易な「アメリカが悪い」という構造になってしまうのは我慢しよう。あれは物語に一定の結末をつけるために必要なギミックだ。本作を社会派作品として観るのなら、注目すべきは誰が悪い論ではなく、あくまで戦争という巨大な憎悪環境に対する、個人の心の持ちようだと思う。

 

 

もう1点、ロボットやAIに関する技術と我々の認識も、この数年で大きく変わった。2003年時点では、PLUTOにでてくる人間臭いロボットはずいぶんご都合主義的で、80~90年代のハードSF作品で描かれた「人間とは違う知性」としてのロボットに比べると、リアルには見えなかった。PLUTO世界のロボットに自我はあるのか、感情はあるとしたらどう認知しているのか、彼らは死をどう捉え、人間をどう見ているのか、法則性が無いように思えたからだ。

 

しかし、基礎的なニューラルネットの利用が一般化し、生成AIチャットボットのような「知性が無くても人間のようにふるまう存在」が当たり前に見られる2023年では、本作でのロボットの振る舞い、人間シミュレーターとしてのロボットは、むしろ自然のように思える。

 

作品世界でロボットの流した涙、ロボットの感じた感情は、ひょっとしたらプログラムされたシミュレーションで、人間の感じるそれとは違うのかもしれない。しかし、結果としてその感情を人間と分かち合うことができるのであれば、それは十分本物で、ロボットは「生きている」というに値する。

 

 

蛇足の不満ポイント

最後の最後に、純粋に不満も書いておく。本作、原作そのまんまだから良かったと言いつつ、ちょっとセリフは映像向けに整理してもよかったんじゃなかろうか。ベテランぞろいの声優を揃え、またアニメーションもキメどころはがっつり決まってる作品だ(アトムのあの表情!)。もう少し演技のちから、絵のちからを信じて、紙媒体ではセリフで説明している部分を抑えてほしかった。

 

特に1話のノース2号編。羽佐間道夫せんせいの凄まじい演技があるんだぞ(生で聴いたら感動で失禁したと思う)。最後の最後で「歌が聞こえる」などと説明セリフを言わせなくてもいいじゃないか。映像作品なんだからスピーカーから流れてるよ!

*1:古くは『ヒルストリート・ブルース』、全盛期は『ER 緊急救命室』など、社会派テーマと人間ドラマでシナリオの密度を上げ、シナリオの急展開で視聴者を飽きさせない高品位なTVドラマシリーズ。また、社会派の要素は抜けたが『24』などもこの継嗣にあたる。

*2:トラキアといえばトルコのことだと思うんだけど、なんでアメリカをモチーフにしたんだろう。これは原作読んだ時からの疑問

自分がChat GPTでやってることが何かなんとなく分かったという話

仕事でBlog書いたり、取引先向けの資料やメールをまとめたりするときにChat GPTを使うことが多くなった。最初は毛嫌いしていたのだけれど、やはり「ラクして仕事したい」という欲には逆らえない。特に英文メールを編集するときには必須だけれど、日本語での長文作成でも使う。

 

Chat-GTP

Blog記事でのChat GPTの用途は、たいていは、3000文字書かなければならない記事の穴埋め情報づくりだ。自分がBlogで主張したいこと(企業ユーザー向けの商業Blogなので、主張=商品の売り)は、たいてい1センテンスで済んでしまう。そこだけ書いても記事にならないので、その前提となる情報をChat GPTに尋ねている。ひとつ目は書き出しのフックとなる市場感だとか社会動向、そしてビジネス課題なんかの「一般課題」だ。ふたつめは、その市場感、課題感に対するこれまた一般的な「打ち手」だ。そして、その打ち手のひとつとして、自社の製品が優れてるんですよ、という主張に繋がるよう、文章をえげつなく書き換えていく。

 

一般論としてBlogは誰でも共感できる一般的な事象をフックにして、個別の主張に繋げていくわけで、まあ理に適った使い方かな、と思ってる。一方で、物凄いAIの無駄遣いしてるな、という気もする。Chat GPTに訊いて出てくる文章は、どれも「ああそうだよね、知ってる知ってる」という内容で、自分でちょっと考えれば作れそうなものだからだ。

 

文章生成AIは、ある文章に対して最も「もっともらしい」文章を続きとして書く確率論的自動筆記マシーンなのだから、当然のことだ。それなりに業界で仕事を続けてきた人間にしては、知識の範囲内のものしか出てこない。

 

この感触は、ビジネス書を読んだ時のそれに近い。ビジネス書って毎年いろんな人がいろんなタイトルで書いて何百冊と出版されてるけど、その内容はどれも、9割が「ビジネスの一般常識」みたいな話になる。オリジナルの発見や主張、革新的な部分は1割だ。

 

逆に言えば、その9割を繰り返し読むことで、ビジネスの常道みたいなものを脳に刷り込ませていくことができる。自分のやってきた仕事の方法論が正しかったのかな、という復習になる。そのうえで1割の気づきが効いてくる。

 

Chat GPTが出してくるのは、この9割の文章部分だ。質問をこねくり回して一見突拍子もない文章を生成させることもできるけど、なんだかんだで、均質な内容に帰結してしまう。生成AIで作られた絵を、誰もがなんとなく「AIの絵」と認識できるようになってきたが、それに近いものがある。

 

自分はビジネス書をもうほとんど読まない。一時期(電子書籍があまり普及する前の時代だ)、いやいやながら集中して読んでいたことがあったが、そもそもやたら厚いわりに余白が多く、字の級数も少し大き目で、本の白黒比というか、紙面積当たりの文字量が少ないところが気に喰わなかった。そのうえ9割は同じこととわかると、当時の自分はばかばかしく思えてやめてしまった。あんなもの読むなら好きな小説を読んだ方がまだマシだと思えたのだ。今は読んでも年1~2冊だ。まあ小説もめっきり読まなくなったが。

 

そんな自分にとって、感覚で分かっているビジネスのあれこれを自動筆記してくるChat GPTは福音だ。端的にラクできる。世にあるビジネスのセオリーやロジックを最大公約数的に取りまとめて出力してくれるそれは、言ってみれば「読書体験の外だし」だ。自分でビジネス書を読んで、自分の言葉に落とし込まなくても、クラウド側で「落とし込んだもの」を書いてくれる。

 

 

 

しかし、これは本当に良いことなのか? 誰が書いても同じになる9割の情報だからといって、外出しにしてしまって、いいのだろうか。

 

本来はこの程度の内容、すぐに書けるぐらいビジネスのセオリーやロジックが身に染み付いてなければならないのではないか。私は今後一生、自分の仕事について確固たるセオリーをChat GPTに任せたまま、業務を続けていくのだろうか? いつか本質的なミスを犯してしまうのではないだろうか。

 

 

私は、Chat CPTを使ったこのBlogライティング手法を、経験の浅いメンバーに任せようとは思わない。なぜなら、Chat CPTの返してきた文章の「もっともらしさ」を彼らは経験から判断できないので、論旨が繋がらなくなってしまうことが多いからだ。

 

しかし、私自身はどうなのだ。「もっともらしさ」を判断できるだけの知識と経験を、今後も維持できるのだろうか? いや、今ですら経験を持ち合わせているのか怪しい。単なる過信と傲慢なのかもしれない。

 

それを確かめるために、あのクソ忌々しいビジネス書を読まなければならないのだろう。Chat CPTの紡ぐ最大公約数的な情報を、自分の中に自分でインストールしていかなければならないのだ。

 

私は起業家ではない。自分の思い込みだけで世界を変えるぐらいのビジネスを推進するパワーはない。常に客、市場のほうを見て、自分の思想や発現を変えていかなければならない。その「自分を修正するちから」を、Chat CPTに外だしすることに慣れてしまうと、いつか、厭なものに飲み込まれてしまいそうな気がする。