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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

ウエストワールド シーズン1 - 観ていた景色が崩壊するアンドロイド・サスペンス

Huluで配信中の『ウエストワールド』は、1983年に公開されたマイケル・クライトンの同名映画を翻案した作品。いまの時代、人工知能テーマなんてよっぽど巧く描かないと白けるだろうと思うんだけど、本作はサスペンスとしての仕上がりが凄まじくて目が離せなかった。で、終わってみるとこれ、立派なSFだったと思う。

広大なテーマパーク、ウエストワールドで、人間を楽しませるキャストとして毎日おなじ役割を演じ、記憶がリセットされるアンドロイド。それがあるきっかけから記憶のリセットを免れ、自己同一性を獲得していく。同時にパークの舞台裏で進む奇妙な事態。「その記憶は本当なのか」「自分はアンドロイドなのか人間なのか」そして「アンドロイドは人間と同じ権利を持ってはいけないのか」……あらゆる謎と疑問を抱え込み、物語は進む。

f:id:debabocho:20170601102543j:plainアンドロイドの自由意思を主題に据え、暴力のあふれるハードな物語だけれど、最新科学に基づいたAI描写で驚きを与える、いわゆるハードSFというわけじゃない。原作とおなじ「もしも遊園地のロボットが自我に目覚めたら」という設定に、リアリティのある映像とシリアスな演技でハッタリを加えたものだ。

けれど、その描写が古典的だからといってこのドラマのSFとしての価値が下がるわけじゃない。これまで多くの作品で語られてきた、ロボット・アンドロイド・人工知能の物語の肝ともいえる「外部から設定可能な感情・記憶・意思」という問題を、テレビシリーズとしては驚くほど細やかに描写することで、SFだからこそ表現できる濃密なヒューマニズムを生み出している。

 

主人公のアンドロイドが、正義感の強いヒーローでも、高い身体能力を持った戦闘マシンでもない、西部劇の脇役の女性であることはその象徴だ。人間に従属するアンドロイドであり、西部時代という女性の権利が蔑ろにされる世界の一員を演じることを強要される、二重の意味での抑圧。自我に目覚めた彼女は、次第に自分の意思でその宿命に立ち向かい、自分の追い求めるものを得ようしようとしていく。

最終回、彼女を含め複数のメインキャラたちのプロットが、思いもよらない叙述トリックで一つにまとまる。各キャラがそれぞれ自分の役目、自分の意思を果たし、ひとつの物語をかたちづくる。これがすごい。9話にかけて引っ張ってきた謎、そしてサスペンスがいっきに弾け、その結末には思わずテレビの前で拍手してしまった。

 

SFならではのヒューマニズムも、この最後の巨大なトリックで明確に成立する。彼女たちの求めたものは、本当に自由意思だったのか? その疑問が成立するのであれば、我々人間に、本当に自由意志と言うものは存在するのだろうか?

ロボットをメンテするために、ロボットのように働く人間。プログラムされた西部劇を見て、プログラムされたように笑い楽しむ人間。彼らにアンドロイドを上回る自由意志があったのだろうか? 自由意志がなければ、ヒューマンと呼べないのだろうか? それでは彼女は? 彼女と我々の、違いとは……? アンドロイドを通して、人間とは何かという疑問を投げかけているのだ。それは最終回の興奮の波にのまれ目立たないけれど、確かに胸に届いていた。

良質なサスペンスを確固たるものとするのは、このSFならではの、今まで信じてきた世界の崩壊する感覚だ。何に拍手したって、ここに拍手した。よいSFだった。

 

ところでこれ、きれいに終わってしまったけど、シーズン2はどうするんだろう? おまけシーンを見るに、『エイリアン2』よろしく「今度は戦争だ!」とでも言うんだろうか。