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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

映画『メッセージ』 - 我々自身、何をどう理解したのかというはなし。

テッド・チャンの小説『あなたの人生の物語』を基に、異星人とのコンタクトとコミュニケーションをこの上なく真摯に描いた『メッセージ』。これはある意味、スルメのような映画だ。見どころは物語のクライマックスで訪れるSF的な衝撃だけじゃない。むしろそのあとだ。物語全体を思い返し(あるいはもう一度観て)、その各所にちりばめられた美しい映像を理解することで、驚きと感動が心に染み入んでくる。

映画という媒体をフルに使ったSF的感動と、その感動を繰り返し咀嚼できるという点で、この映画のありようは『2001年』にも近しいと言えるんじゃなかろうか。ただ、やっていることは続編『2010年』に近い。感動の核心は、異なる存在とのコンタクトそのものにあるのではなく、コンタクトして、何が得られたか、何を理解したかにあるのだから。

 

注:物語の流れそのものには触れないけど、SFネタの核心部分をガッチリ書くので、気になる方は映画を観てからどうぞ。

 

 

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映画内の描写と原作小説での説明をあわせての個人的な理解となるけれど、物語のなかで主人公バンクス博士が解読を挑む異星人の「表義文字」は、一種の(ある意味究極の)ハイパーテキストだ。円環の形状をとるその文字は、実のところ複数の単語を内包している“文章”で、その模様の部分的変化によって強調などの様々な属性が与えられる。円環の中では各単語が互いに密接にリンクしていて、全体でひとつの意味をなすクラスターを構成している。直線的な語順に従った“文章”ではなく、始まりも終わりもない円環状の情報クラスターだ。

さて、「言語が人間の思考を規定する」というのは、よく聞く話だ。日本語話者は日本語でものを考え、世界を認識する。英語話者は英語で、日本手話話者は日本手話で思考する。では、もしも上に書いたような始まりも終わりもない、「線形でない」異次元の文字を習得したとき、人の思考、認識、知性は、どう変化するのだろうか? それがこの物語のSF的飛躍の核だ。

 

その結果は、線形な物語構造の上にあるクライマックスで明らかになり、同時に非線形のかたちで、全編にちりばめられている。これらが一体化することで、世界への理解と、個人への共感が重なりあった感動が生まれる。

ただ、なぜそうなるのか、というテクニカルなプロセスについては、フェルマーの原理を契機に数学-言語-世界を繋げ、そこからめくるめく奇想を発展させていった小説版に比べ、どうしても細密な描写が足りず、説得力に欠ける部分がある。

ただ、映画にはそれを補って余りある力がある。それは映像の美しさだ。この映画が見せつける画には、言葉による解説がなくても、ああ、そういうことだったのかと強く感じさせるだけのちからがある。観る者のイマジネーションをフルに引き出す力だ。

例えばいちばん最初のシーン。家。病院。子供の肌。静謐で抒情的な情景、そして音楽。そこに込められた感情は、初見であってもひしひしと伝わってくる。同じように描かれた数々のカット、数々のシーンが次第に心に浸透していく。それが、クライマックスで一瞬にして意味を成すものとなり、感情を揺さぶる。観終わって思い出すたびに、あるいは2回目、3回目と観なおすたびに、映像の破片に込められた意味がつながり、理解が高まっていく。

そうして、バンクス博士の物語が自分の心と同調して、始点も終点もない、ひとつの大きな感動をかたち作ることになる。

 

SFの感動が、世界の見えかたが変わる感動だとするのなら、この映画はまさにSFそのものだ。ストーリーテリングの技法で、単に驚きを作るだけじゃない。物語の“見えかた”そのものを、線形から非線形なものに変え、物語のすべてが絡み合った質量への理解と共感を作り出す。

異質な思考、異質な世界であっても、人はそれを受け入れ、感動することができる。この作品はその証拠じゃないだろうか? そうまでも感じさせてくれる立派な映画だった。

 

あなたの人生の物語

あなたの人生の物語

 

 

ゴースト・イン・ザ・シェル - 必要だったのは美術でなく情報という話

攻殻機動隊』の映画版。カットカットではすごく「らしい」絵が見られるのに、全体を通して、何でこんなぼんやりとした印象なんだろう。思い至ったのは、美術のディレクションだ。

優秀なアーティストによって過剰なまでに装飾された近未来都市やサイバースペース。でもそこからは、『攻殻機動隊』を『攻殻機動隊』たらしめる、トリビアルな情報が伝わってこないのだ。映画の世界が、「なぜそうなったのか」が伝わってこない。リアルじゃないんだ。

あらすじ

家出少女が自分探しする。

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いやほんと、物語はどうでもいいんだ。テーマもどうでもいい。どうでもいいっていっちゃ悪いけど、ありがちなテーマも、なんだかしっくりこない物語の運びも、アニメ版にだっておおもとの漫画にだってあったわけ。

でも、その背景となる世界に関して言えば、原作漫画はもとより、複数のアニメ・TVシリーズとも(『イノセンス』であっても)、それは単なる「近未来」ではなく、トリビアの塊のようなものだった。複数の世界大戦やその後の政治状況、科学技術の発展は、年表ができる程度に現代から敷衍されたもので、義体サイバースペース、コンピューティング技術だけでなく、政治体制や兵器、航空機、民間文化、交通機関や建築に至るまで、「なぜそうなったのか」が想像できるものだった。

ところがこの映画にはそれがない。舞台は日本とも香港とも知れぬ謎の「国」。ビルを覆うような巨大な3D広告も、アジアの都市の過剰広告をモデルにしたものだろうが、あくまで映画の画面の背景としてインパクトが出るようにしたもので、根本的なリアリティがない。行き交う人々の特殊メイクも同様で、華美で奇妙なだけだ。あの巨大3D広告に本当に広告効果はあるのか? なぜあんなメイクが常態化するに至ったんだろう? 世界に統一感がない。見て想像する手がかりが、あまりに小さい。

 

美術の作り方が、とても美術的なんだ。アジア都市の綿密な取材で得られたエキゾチシズムと未来の手触りを純粋に増幅させ、美しく見えることに固執したように思える。社会学的・技術的に「なぜそのような都市、そのような社会となったか、それが進化するとどうなるのか」という発想が見えない。それじゃあ表面的だ。

おかげで物語やテーマまで、空虚で上滑りなものに見えてしまう。緻密に作られた世界の中でこそ、ゴーストに突き動かされた運命の出会いは成立する。ソリッドでない舞台の上では、それは単なるご都合主義だ。

WETA社の人材をふんだんに使って、大隊規模の人員でVFXやメイクの見本市みたいな画面を作るんなら、体に線引いただけに見える義体のパーツの分かれ目を立体的に描くとか、そっちの方面に使ってくれればよかったのに。

 

SF作品は「世界」がしっかり作られていれば、そこで何をやっても面白くできる。いや自動的に面白くなるとは言わないけど。一方世界設定がロジカルでないと、中途半端な近未来ファンタジーにしかならない。だってSFって、外挿的なものでしょう。映画を観終わって、そんな当たり前のことを感じている。

 

 

 

食い意地:練馬 蕎麦『ふる井』

休日、久々に練馬を散策したので、豊玉の蕎麦『ふる井』で昼から蕎麦飲み。

駅から遠く、自動車で来るようなお店でもなく。小さくとても良質で、近所の人が続々と集まる、たいへん良いお店。

お昼のセットメニューはよいものがそろっているけど、夜メニューも頼める。日本酒も。季節のお料理をおつまみに、お酒をいただく。 

わさび菜の和え物。

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たけのこ焼き。

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日本酒は『伯楽星 純米吟醸 おりがらみ』に、勢いがついてメニュー外の『越乃景虎 にごり生』。前者はフルーティでまろやか、後者はなめらかな舌触りで、柔らかだけど後味にぴりっと残る。おいしい。

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そして天ぷら。すごい盛りだ。季節ものだから、ゼンマイやコチも入ってる。コチは夏の魚だと聞くこともあるけど、春の花の咲き始める頃がおいしいとかなんとか。

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あまりの食いでに、肝心の蕎麦の写真を忘れてしまった。細打ちですっきり。天ぷらも衣が軽く油っこいわけではないので、ちょうどいいバランス。

たらたらと歩いて、徳田の立派な早咲き桜を見て、哲学堂の水道タンクまで足を延ばす。

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以前世田谷の砧から桜上水のあたりを真っすぐ貫いている道を歩いていて、正面にこの配水塔が見えたときは、はっとなった。この道は荒玉水道道路。なるほど繋がっていたわけだ。

休日練馬から中野に向かう道は、車も人もほとんど通らず、空は広く、実に散策向き。