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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

自分がChat GPTでやってることが何かなんとなく分かったという話

仕事でBlog書いたり、取引先向けの資料やメールをまとめたりするときにChat GPTを使うことが多くなった。最初は毛嫌いしていたのだけれど、やはり「ラクして仕事したい」という欲には逆らえない。特に英文メールを編集するときには必須だけれど、日本語での長文作成でも使う。

 

Chat-GTP

Blog記事でのChat GPTの用途は、たいていは、3000文字書かなければならない記事の穴埋め情報づくりだ。自分がBlogで主張したいこと(企業ユーザー向けの商業Blogなので、主張=商品の売り)は、たいてい1センテンスで済んでしまう。そこだけ書いても記事にならないので、その前提となる情報をChat GPTに尋ねている。ひとつ目は書き出しのフックとなる市場感だとか社会動向、そしてビジネス課題なんかの「一般課題」だ。ふたつめは、その市場感、課題感に対するこれまた一般的な「打ち手」だ。そして、その打ち手のひとつとして、自社の製品が優れてるんですよ、という主張に繋がるよう、文章をえげつなく書き換えていく。

 

一般論としてBlogは誰でも共感できる一般的な事象をフックにして、個別の主張に繋げていくわけで、まあ理に適った使い方かな、と思ってる。一方で、物凄いAIの無駄遣いしてるな、という気もする。Chat GPTに訊いて出てくる文章は、どれも「ああそうだよね、知ってる知ってる」という内容で、自分でちょっと考えれば作れそうなものだからだ。

 

文章生成AIは、ある文章に対して最も「もっともらしい」文章を続きとして書く確率論的自動筆記マシーンなのだから、当然のことだ。それなりに業界で仕事を続けてきた人間にしては、知識の範囲内のものしか出てこない。

 

この感触は、ビジネス書を読んだ時のそれに近い。ビジネス書って毎年いろんな人がいろんなタイトルで書いて何百冊と出版されてるけど、その内容はどれも、9割が「ビジネスの一般常識」みたいな話になる。オリジナルの発見や主張、革新的な部分は1割だ。

 

逆に言えば、その9割を繰り返し読むことで、ビジネスの常道みたいなものを脳に刷り込ませていくことができる。自分のやってきた仕事の方法論が正しかったのかな、という復習になる。そのうえで1割の気づきが効いてくる。

 

Chat GPTが出してくるのは、この9割の文章部分だ。質問をこねくり回して一見突拍子もない文章を生成させることもできるけど、なんだかんだで、均質な内容に帰結してしまう。生成AIで作られた絵を、誰もがなんとなく「AIの絵」と認識できるようになってきたが、それに近いものがある。

 

自分はビジネス書をもうほとんど読まない。一時期(電子書籍があまり普及する前の時代だ)、いやいやながら集中して読んでいたことがあったが、そもそもやたら厚いわりに余白が多く、字の級数も少し大き目で、本の白黒比というか、紙面積当たりの文字量が少ないところが気に喰わなかった。そのうえ9割は同じこととわかると、当時の自分はばかばかしく思えてやめてしまった。あんなもの読むなら好きな小説を読んだ方がまだマシだと思えたのだ。今は読んでも年1~2冊だ。まあ小説もめっきり読まなくなったが。

 

そんな自分にとって、感覚で分かっているビジネスのあれこれを自動筆記してくるChat GPTは福音だ。端的にラクできる。世にあるビジネスのセオリーやロジックを最大公約数的に取りまとめて出力してくれるそれは、言ってみれば「読書体験の外だし」だ。自分でビジネス書を読んで、自分の言葉に落とし込まなくても、クラウド側で「落とし込んだもの」を書いてくれる。

 

 

 

しかし、これは本当に良いことなのか? 誰が書いても同じになる9割の情報だからといって、外出しにしてしまって、いいのだろうか。

 

本来はこの程度の内容、すぐに書けるぐらいビジネスのセオリーやロジックが身に染み付いてなければならないのではないか。私は今後一生、自分の仕事について確固たるセオリーをChat GPTに任せたまま、業務を続けていくのだろうか? いつか本質的なミスを犯してしまうのではないだろうか。

 

 

私は、Chat CPTを使ったこのBlogライティング手法を、経験の浅いメンバーに任せようとは思わない。なぜなら、Chat CPTの返してきた文章の「もっともらしさ」を彼らは経験から判断できないので、論旨が繋がらなくなってしまうことが多いからだ。

 

しかし、私自身はどうなのだ。「もっともらしさ」を判断できるだけの知識と経験を、今後も維持できるのだろうか? いや、今ですら経験を持ち合わせているのか怪しい。単なる過信と傲慢なのかもしれない。

 

それを確かめるために、あのクソ忌々しいビジネス書を読まなければならないのだろう。Chat CPTの紡ぐ最大公約数的な情報を、自分の中に自分でインストールしていかなければならないのだ。

 

私は起業家ではない。自分の思い込みだけで世界を変えるぐらいのビジネスを推進するパワーはない。常に客、市場のほうを見て、自分の思想や発現を変えていかなければならない。その「自分を修正するちから」を、Chat CPTに外だしすることに慣れてしまうと、いつか、厭なものに飲み込まれてしまいそうな気がする。