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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『永遠のソール・ライター』展 雑感

ソール・ライター展の冒頭解説にもある「シュルレアリズム的」という評価と、「見たもんを撮ってる」という本人の言葉、どう両立するのだろうと思っていたのだけれど、ははあなるほど、鏡とガラスか。

シュルレアリズム”的”、キュビズム”的”という評は、そもそも本人の好んでいた絵画の潮流(まあ当時はそう時代だったろうし)と、その後ファッション誌のために撮られた写真からだと思う。今回の展示にもあった、おそらく鏡を介して光の中でモデルの顔が3分割された写真は、とても立体的。

 

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Saul Leiter

 

ただ、それが本当に見て取れるのは、本人が「自分のため」と撮り続けてきたカラーのストリート写真。それがまさに再評価の泉源なのだけれど、彼の撮った写真には、マンハッタンのいたるところに存在するガラスや鏡の反射と透過をつかった写真がほんとうに多い。あ、反射というと雪、雨、霧といった自然による光学現象もそうだろうけど、それを言い出すと話が膨らみすぎる。

自動車の中を覗くような写真は、その窓ガラスに阻まれてそこに背景の高層建築が見える。クローズアップの中に背景が重なり、複数の情景、複数の意味が1枚に濃縮される。ストリートのバスや消火栓を映すショーウインドウの奥にあるアンティークの鏡に映った、花と自分の姿。意味が濃い。本人が面白いと思った街の暮らしが、重ね合わされ、1枚に現像されている。

 

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Saul Leiter

 

ソール・ライターのスナップは、単に目に映る光景を映すのではなく、遠景から近景、右から左、後ろと視点を移していくことでほんらい把握できるはずの立体的な街の暮らしを、1枚の写真に抽出できるポイントを発見し、捉えている。そう思える写真が多かった。

もちろん、基本的に写真が巧い。紫の傘など、色を強調させる写真も、いっとううまく効果の出るアングル、タイミングを得ている。展示会にはいくつかベタ焼きの展示もあったけれど、スタジオでなくストリートスナップでも同じ構図をけっこうたくさん撮っていて(といってもアナログカメラだから数枚だけど)、よくセレクトしているのがわかる。その選択眼だと思う。

 

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Saul Leiter

 

個人的に面白かったのは、撮影の合間にアイスクリームか何かを食べる表情をずっとおいかけたコンタクトシート(ベタ焼き)と、「モンドリアンの労働者」。前者は表情がユーモラスで生き生きとしていたし、後者はネーミングの勝利だろう。長方形のベニヤ板で囲われたビルの一角に現れた工夫は、ほんとうにモンドリアンの絵を作っているようにも思えるし、それそのものがモンドリアンの見出した都市の概念の濃縮されたパロディだ。この2編には思わず笑ってしまった。

また、閉店し内側にペンキを塗りたくったと思われる店のショーウィンドウと、そこに映ったダウンタウンの光景を重ねて捉えた1枚も非常に心に残った。その像にどういう意味が込められたのか、どう見出すべきなのか、それはまだわからない。ただ、日常の中にも超越的に感じられる一瞬があるのだな、と強く感じた。

 

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Saul Leiter

 

今回のBunkamura ザ・ミュージアム『永遠のソール・ライター』展では、ポイントカラーや雪、雨、水滴、そしてもちろんライティングによって抽象的な美を表現した写真もじゅうぶん楽しめるし、妹やパートナーを撮った写真、絵画も豊富で、ストリートの写真とは異なる重みが感じられる。いま観ておいてよかった。

初代ガンダムにおける「戦争」は何の比喩だったのかという思いつきのひとつ

端的にいうと、あのテレビシリーズで描かれた戦場には、富野由悠季という作家の経験したアニメの「仕事」が、そのまま落とし込まれているように思えてならない。

 

f:id:debabocho:20190702185108j:plainいちばんさいしょの『機動戦士ガンダム』(1979年)は、ロボットアニメという枠で人間同士の戦争、戦場を描いた“リアル”なドラマだったけれど、そのリアリティは、富野監督や制作に関わった人々が、まだ第二次大戦を経験的に知ることのできる世代だったからだ、とよく言われる。

でも、あの人間描写、あの劇から感じる息遣いは、実際の戦場のそれだけだったのだろうか? あるとき富野氏のエッセイを読んでいてふと思ったのだ。実はあのリアリズムは、彼がアニメの仕事で経験し、成長してきた感覚の、敷衍じゃなかろうか?

アムロの成長のリアリティ

映画版では物語が圧縮されてあまり感じられないのだけれど、テレビシリーズを連続してみると本当に思うのだ。あのアムロ少年の“成長”とは、企業で仕事を任されてしまったときに感じるそれに、すごく近いと。

本当にやりたいこととは違う仕事に、巻き込まれるように従事し、右も左もわからないなか手をうごかしたら、意外とうまくできてしまった。で、ほかに出来る人もいないし、やるしかなくて必死にやっていくだけ……。途中で逃げ出したくなったり、体が動かなくなったり、人間関係で思い悩むけど、それでもいつしか、この仕事を一番うまくできるのは自分なんだ、自分がこの仕事を成功に導くんだという自負が生まれていく。

それは、映画志望だった富野氏がアニメ業界というワイルドな仕事環境に足を踏み入れ、その中で必死に仕事をしてきた経験の投影だったんじゃないかと思うわけ。

 

ニュータイプ」というのも、その延長線上にある気がする。

ある仕事に取り組み、スキルレベルやマネジメントレベルという言葉では言い表せられない、何かしらの対応度みたいなものがあがっていくと、あるとき状況への洞察が高まるあまり、まるで自分の後ろの席でいま何が起こっているのかまで見通せるような、万能感に似た感覚を覚えることがある。「あ、すっげー仕事できてる!」と思える一瞬。

SF的な「人類の進化」とか、『かもめのジョナサン』的なニューエイジ思想で語られるニュータイプという表現は、原点は、そんなちょっとした万能感であって、SF的・神秘的な「刻が見える」演出は、その感覚をうまくとらえて劇的にしたものじゃなかろうか。

じゃあシャアはなんなのか

一時期、アムロのライバルのシャアをビジネスの文脈で持ち上げて、理想の上司だとか、シャアから学ぶ何とかみたいのが流行ったけれど、実際ガンダムを通して見ると、圧倒的にリアルで共感できるのはアムロの成長だ。

むしろシャアなんて最初から仮面かぶった王子様だし、生き別れの妹が敵方にいるし、左遷されたかと思えば都合よくもどってくるし、これは戦場の少年兵たち(=職場の青年たち)というモダンな群像劇に、古典的な起伏のある「劇」を持ち込みドラマを転がすために作られた夢キャラとしか思えない。そんなキャラが生っぽいせりふを言うからギャップで共感できるし、不自由な会社の中で自由勝手にできるハンサムガイという願望のつまった夢キャラだからこそ、ビジネスでも理想のロールモデルになる。

続編で情けないキャラになったと言われるのも当然で、1作品の作劇の道具として作られたキャラだったのに、続編によって作品内にリアルな時の流れが生まれて、その中に落とし込まれ無理にも身体性を与えられれば、そうもなろうよ、という話だ。群像劇の仲間にはいるのなら、情けなさを強調されて、正解なのだ。

戦争と日常

カッコいいロボットの戦闘を楽しむアニメでありながら、リアルな戦争と人間を描いたと言われ、その二律背反こそがガンダムを傑作としているんだろう。ただ、いまでもそれが傑作であるのは、そこにあった人間劇が「戦争」という極限に限られたものではなく、「日常の労働」という普遍的な、だれもが共感しうるものであったからじゃなかろうか。

 

シリーズの後半、あるエピソードに、アムロたちが長く大きな戦闘を生き延び、疲れ切ってみな泥のように眠っておわる物語がある*1。あれを見たとき、すごく不思議な感覚を得た。描かれた結末は、すごくリアルな“戦争”だと思えたのに、同時に、すごくリアルな“仕事の現場”だと感じられたのだ。巨大な案件を乗り切り、へとへとになって帰った、あの夜のような。

そして、想いを糺した。戦争、出兵というのも、生身の人生においては、日常の延長線上に起こるものなのだ。そこで行われる営みも、非日常のスペシャルなもの、ヒロイックなものではなく、とても日常的なものであるのだ。そして、人のいのちを奪いあう状況が日常の一部として発生することこそ、もっとも恐れ唾棄すべきものなのだと。

*1:第36話『恐怖!機動ビグ・ザム

ヨガ雑感

いま日曜の13時。ヨガをやってきた。コギャルと即身仏のあいの子みたいな先生なんだあれむっちゃハードだな。前回と同じ初歩コースなのにお説教少なめなぶんバッキバキにストレッチされたわ。


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しかし前回、つまりこのヨガスクールに入って第1回目のほうは、商売という意味である意味面白かった。その先生はレクチャー中ずーっとベラベラヨガの思想面、つまりいかに心を癒やすのか、という点を語っていたのだ。今回もある程度語ったが、心にもう一人の自分を持って観察せよとか、前後で心の有り様を注目せよとか、ポーズ作るのも無理をするな自分に意地を張るなとかそんなこと。

これを聞いて、ははあ、なるほどヨガは勝ったのだと身にしみてわかった。体を治すのであれば、現代ヨガがニューヨークに生まれる前から当地ではいろんな女性向けストレッチや体操講座があったわけだ(ドラマ『マーベラス・ミス・メイゼル』に出てくる謎の婦人体操とか、面白い)。エアロビクスだのタイボーだの、それぞれ今もやり込み続けられる深さを持っている。

でも、ヨガはその目的、存在意義を明確に「体ではなく心をつくる」と定義した。ごく恣意的な定義ひとつで競合ひしめく体操マーケットから抜け出し、「エクササイズ界のナンバーワン」でなく「ヨガ。オンリーワン」という価値を纏ってしまった。マーケティングの勝利、プロモーションの勝利だ。

 

インストラクターの人たちはたぶんそんなこと1ミリも考えずにそれぞれ求道の心でヨガをやっているんだろうが、まあハックされたわけ。心を。地球ぜんたいそう。ヨガ体操のマーケティングワンアンドオンリーの価値を打ち立て地球に君臨し、この先かなり長いあいだ、人類の文化のひとつとして存続するだろう。

そんなことが、レクチャーのあとの瞑想タイムに湧いてくるのだ。何が心を無にしろだよ思い浮かぶのはカネ・カネ・仕事。結局どう儲けるか。はーやだやだ。