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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

『それでも夜は明ける』映画感想: 美しい絵、醜悪な現実

2013年度のアカデミー賞、作品賞受賞作なのだけれど、ド直球に社会問題を描く映画はテーマ性が先だってしまい、全体のバランスが悪かったりするよなあ……と例によって薄っぺらい皮肉を考えながら観に行ったらごめんなさい。まず飛び込んでくるのは絵の美しさ、カットの重ね方の巧みさ。そして、その絵に込められた様々な比喩の説得力。上手い。すごく上手い映画だ。アカデミー賞は伊達じゃない。

あらすじ

19世紀中葉のアメリカ合衆国。自由市民として生活するソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、ある日突然拉致され、奴隷として南部に連行される。家族も、バイオリニストという職業も、名前すらも奪われ、今まで対等に話してきた裕福な白人たちに、奴隷として扱われる日々が始まる。

ソロモンの知性や素性に気づいた奴隷主も、合法的に購入した彼を解放したりはしない。転売され、より劣悪な奴隷主の手に渡っていくソロモン。南部の美しい森の中で、彼は地獄とは何かを知る。それは人間の尊厳が奪われることで、魂までもが擦り減っていく異常な空間だった。

感想

美しい絵が示す説得力

f:id:debabocho:20140316142327j:plain映画館に入る直前まで、こういうテーマ性重視の作品は別にテレビで観てもいいんじゃないのと思っていたけれど、これは本当に映画館で観て良かった。描かれるアメリカの景色、自然、そして人々の表情が、きめ細やかで美しく、目を奪われる。蒸気船のパドルの起こす絶え間ない波、南部の川にかかる巨木の葉のゆれ、月の光に照らされる積乱雲……。庭の泥のうねりすら、陰影を伴って丁寧に描写される。その泥は、主人公が吊るされ、窒息しまいと必死にもがく足の先にまとわりつくものだけれど。

人間に窒息をもたらす泥のリアリティは、映画全体のもつ奴隷制度のリアリティにそのまま重なる。奴隷の身に落とされた一人の知性ある人間が、精神的窒息状態の寸前のところで、もがき苦しみ、延々と生かされ続ける。これが、制度化された人種差別に襲われた者の人生だ。美しい絵が、醜悪な現実に途方もないリアリティを与えている。暗い夜にも沸き立つ雲の意味に、思いをはせることができる。

差別の多面性

この長い物語が描くのは、人間の尊厳を奪われた者たちの人生だけではない。奴隷を使う側の心理や背景も、いくつかの場面で強烈に描かれる。

たとえば彼の最初の主人となるベネディクト・カンバーバッチは、奴隷主でありながら、高い教養と理性を持つ聖職者だ。彼は奴隷商館で引き裂かれる奴隷の母子に胸を痛めるが、取引自体を止めたりしない。また高い知性を持つソロモンに感服し、信頼を置くが、彼がそれゆえに妬まれ命を狙われても、彼を解放したりしない。奴隷は正当な制度であり、彼には奴隷を使う権利があり、また奴隷を売買しなければ彼の家の経済もなりゆかないからだ。

より残虐な主人、マイケル・ファスベンダーに至ってはもっと強烈だ。彼は自分の思慮のなさ、人としての弱さの問題を、奴隷に転嫁し、彼らを教育目的で殴りたおす。そして奴隷を奪われた彼は、自分を被害者と定義する。

人は誰でも、基本的に善良で、不正義を嫌う。無意識にそう信じて生きている。それゆえに、この映画の白人たちは奴隷制の異常さに気づかない。善良な自分たちが努力して作り上げた社会、日々の生活が、悪であり不正義である筈がない。知能の低い黒人奴隷たちを使ってやることは善、粗野な黒人を放置すれば社会は乱れ、ゆえに凶暴な黒人に罰を与えるのは正義なのだ。

黒人がなぜ奴隷になったのか、なぜ低能で粗野で凶暴に“見える”のか、その見方が正しいのかなど、気にもとめない。

この構造は、あらゆる差別問題に共通だ。

人が自らの善と正義に立脚するがゆえに起こる、究極の差別。美しい絵と、絶望に彩られたソロモン・ノーサップの物語のあとに立ち昇ってきたのは、この普遍的なテーマだった。

カンバーバッチVS南部英語

ところで意外と注目されていない、本作へのベネディクト・カンバーバッチの出演だけど、コクニー訛りの彼にベタベタの南部英語を喋らせるのはさすがに難しかった模様。彼が感情をあらわにするシーンは前述のとおり奴隷制の本質を浮かび上がらせるすっごくシリアス&重要なものだったのに、方言にちょっと笑っちゃった。

 

ルーツ 1 (現代教養文庫 971)

ルーツ 1 (現代教養文庫 971)