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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

アクトレス 女たちの舞台 - 女の時間をどう描くか

原題は『シルス・マリア』。その名の土地で稀にみられる、谷に沿って蛇のように流れこむ雲霧“マローヤの蛇”が、映画の鍵となってる。映画の中で、人生あるいはその時間とは、霧のように手に取ることはままならず、しかし蛇のように人生を縛るものとして描かれる。

あらすじ

女性社長とインターン女性の恋愛を描いた舞台『マローヤの蛇』を契機に世に出た女優マリアは、恩師とも言えるその劇作家の死に戸惑う。そんななか『マローヤの蛇』が新たな演出家のもと再演されることを知り、マリアは出演を受諾する。
しかし、彼女の新たな役は老いた女性社長であり、かつて彼女が演じた若きインターン役は奔放な若手女優ジョアンへと変えられていた。亡き劇作家の家で、マリアはマネージャーのクリステン相手に脚本の読み合わせをはじめる。マリアの境遇と役の境遇が重なり合い、読み合わせは彼女の人生そのものを、再構築していく。

 

感想

この映画は、三重の入れ子みたいな構造だ。

  • 壮年の女優マリアに対する若いマネージャー、ヴァレンティン(+若手女優のジョアン)
  • 演劇『マローヤの蛇』の壮年の女性社長と、若きインターン
  • この映画を演じる名女優ジュリエット・ピノシュ(マリア)と若手女優クリステン・スチュワート(ヴァレンティン)(+クロエ・モレッツ(ジョアン))

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舞台劇のキャラの葛藤と映画の登場人物の葛藤は重なりあっていて、観ているとその背後にある本物の女優の心情にも思いが至ってしまうという設計。マリアとヴァレンティンが読み合わせをする一連のシーンは迫真で、役者・役者の演じる役者・役者の演じる役者の役の葛藤が一体となって迫ってくる。成熟してしまった女性の迷いと苦しみをすごい濃度で表現していて、セリフの一言も聞き逃せない。

 

ただ、劇中の社長とインターンの関係が、単純にマリアとヴァレンティンの相似になっているかというと、そうでもない。舞台の中の社長と若いインターンのように、マリアはヴァレンティンの若さに惹かれ嫉妬もしてはいるが、実は若いヴァレンティンも、マリアの未だエネルギッシュな奔放さに惹かれ、苛立ち、苦しんでいる。
ヴァレンティンの演技に関する想いや考えをマリアは歯牙にもかけず、苦しむヴァレンティンは男を言い訳にして、ひとり霧の道をドライブする。ヴァレンティンもまた、人生の霧の中で迷っている。そして、彼女は舞台の中の社長と同じように、ふっと消え去ってしまう。描かれる苦悩は、単に歳を取ってどうとかの話じゃない。もっと混然一体となった、ままならない人生の苦しみだ。
 
長いエピローグで、マリアは馬鹿にしていたSF映画の監督と、ジョアンの冷たい言葉にようやく気づきを得る。結局、時という蛇に縛られた自分のあるがままを受け入れるしかないのだ。そうすることで霧は晴れる。全てを悟った彼女の表情は見事の一言。言葉にならない何かが、すとんと腹落ちして、大きな満足感を得られる。そんな映画だった。
 
さて、入れ子になった関係性にもうひとつ加えるなら、亡くなった劇作家は、この映画の監督、オリヴィエ・アサイヤスとも重なる。どちらも男性の演出家だが、劇の中で男の脚本を女が自由に解釈し、一種アドリブ的に演じ(冒頭クリステンがセリフをとちる部分をわざと入れて、劇にライブ感を盛り込んでいる)、スクリーンで再現される人生をリアルなものとしているからだ。
観終わってみると、ジュリエット・ビノシュクリステン・スチュワート、クロエ・モレッツは、どんな想いでこの映画を演じたのだろうか? そんなことばかりに想いが行ってしまう。それこそ、監督の思惑通りなのかもしれないな。