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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

ファインダーを覗かないプロのフォトグラファーの出現

たまたま身近にプロのフォトグラファーのいる暮らしをしているのだけれど、先日撮影でちょっとイラっとした話を聞いた。人物取材だかモデルの撮影だかの案件での話だ。

 

camera

その時はツーカメ体制で、彼ともう一人、若手のフォトグラファーが入ったのだけれど、その若手はモデルを撮るときにファインダーを全く覗かず、背面のモニタでフォーカスはカメラの顔認証に任せてバシャバシャ撮っていたそうだ。さすがに失礼というか恥ずかしくなって、裏に呼んでポーズだけでもいいからファインダーを覗けと説教したという。

 

そう語った彼はものすごく温和な人だったので、そんな彼でも現場ではイラつくことがあるんだとそのギャップに笑ったりもしたのだけれど、ふと、あの業界でもいよいよ分水嶺を超えつつあるのかな、と思った。彼は30代後半だ。プロとしては、アナログカメラで撮影から現像までを学び、仕事でもまだアナログを使っていた世代だと思う。しかしどうなんだろう、彼より下の世代となると?

 

 

私は完全に業界の部外者なんで実際のことろはまったく知らないのだけど、生まれた時から機械学習ベースの超強力なオートフォーカスがある世代は、生まれた時からインターネットやスマートフォンがある世代と同じぐらい、デジタル機器への接し方が違うのではないかなあ、という想像が働く。あの若手フォトグラファーの仕事の仕方も、彼なりのノウハウと成功経験があってのことだったのかもしれない。ミラーレスの電子ビューファインダーの反応速度が一眼レフのミラー作動速度を超えたいま、ファインダーと背面スクリーンに映っている映像はまったく同じだ。

 

昭和時代の師匠と弟子筋、暴力の支配する商業写真の世界は、この10年でずいぶん変わったと聞くけど、デジカムのハードウェア・ソフトウェアの成熟で、いよいよ違う次元に入りつつあるのかなあ。そんな風に思えてきた。

 

 

 

……と、ぼんやりと終ろうと思ったが、でもやっぱり、信じられないのよね。自分も、プロのフォトグラファーは必ずファインダーを覗くものだと刷り込まれてるから。

 

確かに、被写体によっては、撮影環境をビシっと整えてしまえば、ファインダーよりPCの画面で見たほうがよい状況もあろうことは想像がつく。また、フィルムの制約から解き放たれたデジカムの世界なんだから、1回1回構図を決めるのではなく、とにかく量を撮って、あとから良く撮れたものをセレクトすればいいのでは、という方法論もあるとは思う。

 

でも実際のところ、我々アマチュアは、ファインダーを覗かずやたら枚数稼ぐ撮り方でやっていて、しかしてまともに撮れてないわけじゃないですか。機械任せのフォーカスでは。プロとアマの違いは、ちゃんと被写体を見て、自分の設定でビシっと結果を出せるところにある。

 

それに、より本質的な問題だけれど、ファインダーを使わずバシャバシャ枚数上げる撮り方で出てきた写真は、偶然の産物であって、被写体を見て主体的に「こう撮りたい」という意思によって生み出されたものじゃない。撮れていたものに後から意味づけをする、言ってみれば自分でファウンドフォトを作ってるようなものだ。

 

もちろん、ファインダーを覗かないプロ撮影というのもあるのはわかる。例えば今回も若手の彼からすれば、もうひとりが古典的なスタジオ撮影をする人だったから、自分は敢えて偶然から撮れる表情を拾おうとしたのかもしれない。だったらそこにアーティストの意図が介在するのだからOKだ。ほかにも、たとえば戦場写真みたいな究極のストリート状況であれば覗かない必然性はあるし、もっと卑近に「手を伸ばして高いところから撮る」みたいなこともあるだろう。

 

しかし、そういった特殊な状況を除けば、フォトグラファーはファインダーを必ず覗く。それは文字通り被写体だけを見て、被写体にフォーカスするためだ。そうすることで、被写体となる人間も、撮られ方を意識し、相互のコミュニケーションで作品を作っていくプロセスが始まる。

 

彼が語った「失礼」という言葉は、存外に的を得ていたのかなと思う。ファインダーを覗かない撮影は、被写体の作品作りへの加担を、遠ざけてしまうことになるのではなかろうか。