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Gaao Line's Web Journal: Writing about US/UK TVs, cinemas, and foods I love.

ウディ・アレン風ロマコメとしての『ガンダム:閃光のハサウェイ』

*注:テレビ用に再編集されたものでなく、映画の感想です。

 

90年代に書かれた富野由悠季の小説が、2020年代になって新作映画として、それも本人以外の監督作品として作られた。商売のためならなんでもやるなーと思っていたのだが、まあ大好きなので観に行ったら驚いた。『閃光のハサウェイ』って、こんな話だっけ? なんか、ウディ・アレンの初期ロマコメみたいなんですけど。

あらすじ

テロリストのハサウェイ、軍人のケネス、そして謎めいた女性ギギ。地球行きの船で偶然知り合った3人は熱帯のホテルを舞台に恋のさや当てを繰り広げ、ハサウェイはテロリストとしての生き方に悩む。

 

ほら。これ骨格は完全にラブコメなんですよ。本来会うはずのない男女が偶然船に乗り合わせ、ひょんなことから意気投合して、やたら饒舌に、人生とか世界とか恋愛とかセックスとかを語り合う。主人公は自分の生き方にうじうじ悩んでいたが、女と話してるうちになんだかわからんが勝手に吹っ切れ、とりあえずは人生前に進めるという(身勝手なヤツ!)。

 

浮ついたセリフたち
富野由悠季とウディ・アレン

私も積極的に恋愛映画を観てきたわけではないのだけれど、20代の頃はウディ・アレンの映画が楽しくて堪らなかった。大学の視聴覚室の小さなCTRモニタで見た『マンハッタン』のオープニングに、痺れたものだった。

 

この映画にはどこか彼の映画に似た、当事者にとっては深刻だが妙に浮ついたセリフの掛け合いが感じられる。ただ本作は、主人公がアレンの映画のように小説書いたりテニスやったりする代わりに、巨大ロボットでテロをやってるわけ。

 

こうなると長身の優男であるハサウェイが、むしろ背の低いちぢれ毛メガネのユダヤ人に見えてくる。最高に笑ったのが、ホテルの部屋に押しかけてきたギギの裸を見た時に逆ギレと、その後のモノローグ。セックスのこと考えてるくせに、いざ裸体を見せられると妙なプライドでそんなの違うとプリプリ起こるのも、そのあとエレベーターの中で「まずかったかなー、違ったかなー」とぐちぐち言うのも、いちいちウディ・アレンっぽい。こういうセリフもっと聞いていたい。2倍に増やしてもいい。

 

これはハサウェイというキャラがたまさかアレンに似ているのではなく、根本的に、作家である富野由悠季自身の思考回路がアレンに似ているんだろう。

 

男目線での"女"を通じたニュータイプの再解釈

で、慌てて原作である小説を読んだのだけど、これがセリフも一言一句同じ、このとおりの物語になってて二重に驚いた。ただ映画では絵だけで語って見せる部分が、小説では富野由悠季による思索が生で入るわけで、それがまたこいつウディ・アレンかよという印象。ダバオの街を彷徨い歩きながら地球環境だの文明だの女だのを書きつけるのは、アレンがニューヨークで社会だ女だをぶつぶつ語るのとそっくりだ。語ったところで虚しいことなのに、それでも語りたくなる自分に自覚的。

 

つまりは富野由悠季はそういう面倒くさい人なのだ。そして、アレンと同じ、身勝手な男性視点での「女性の神聖視」がこの映画にも見える。

 

ギギのわけわからんキャラ造形は、まさにそれだ。眼の前で起こった戦争にパニックを起こしていたのに、それが済むとケロっとして「怖かったね」などとコケティッシュに微笑みかける。あまりに極端な展開でそんな人間いるかよと思うんだが、同時に多くの男性が(女性も)、自分の青春を思い出し「いやーそういうテンションの女っているよね」と思えてしまう、妙な生々しさがある。

 

ギギの造形には、富野自身の恋愛経験があったのではないかと思う。彼女のキャラクターは、21世紀の人間の解像度なら何らかの感情障害とか病理的な分析がつき、恋愛の描かれ方はもっとフェアな物になったのだろう。しかし90年代の富野のリアリズム、男の主観では、こうなのだ。

 

原作小説で富野は、自身が発明した「洞察力の進化した人類:ニュータイプ」というふわっとした概念を、男から見た「魔性の女」という存在に落とし込んで見せた。魔性の女(あるいは魔性の男)というのは、こちらは見透かされてるのに、向こうのことはちっとも分からない、そんな人だ。

 

ロボットアニメで再現される、こっぱずかしいあの感覚

ウディ・アレンが表現する身勝手な「少女の神聖視」は、彼の一種不気味なマスキュリニティの裏返しだし、人間の描き方としてそれでいいのかという課題は、90年代の頃から持たれていた。そしてそれは、のちにアレンのスキャンダルとして表面化し、彼の評価を落とすことになる。

 

でも、彼の映画を観てるうちは、その不気味さは潜在意識下に追いやられる。それほどのトークの面白さだし、そうやって作品世界に引き込んでくるのがアレンの恐ろしい手腕だと思ってる。

 

そしてこのロボットアニメ映画も、知ってか知らずかそれに近いことをやってる。20歳にもならん少女に神秘性を見出しちゃってさ。なーにが金髪に透き通るような肌だよバカみたいなピアスくっつけて*1、エキセントリックな感情表現してみせて。でも、それがまた、魅力と思えてしまう瞬間というのは確かにあるのだ。それは私もまた、富野作のセリフの面白さに慣れすぎてしまったせいかもしれないけれど。

 

閃光のハサウェイには、そしてウディ・アレンの映画には、「あの頃の恋愛」の感触がある。常に性欲を意識しつつも、自分は知性で愛を楽しみ、対話で相手への洞察を深められている、というあの無意識に傲慢なあの感触が。20代30代の、恋愛のウブさを脱して、「自分は大人になった」という妙な万能感の上に立った、恋愛と人生の饒舌な語り合いが。いやーこっ恥ずかしい青春映画だ!

 

 

余談1:すごい言葉と絵の演出

この映画、小説をかみ砕いて映像化した作品として天才的なのは、小説の地の文、富野氏の独特のリズムで書かれていたさりげない文章を、アムロのセリフとして再解釈したところだ。富野小説は「既に、死の香り」(だったっけ?)とか、あまり読ませどころではない場面にやらた詩的で印象的な言葉がサラっと出てくるのが魅力だけれど、ここもよく見抜いて、やってくれたなといった感じ。凄くいい映像化だと思う。言うも不敬だが、富野氏本人ならこうは撮れなかった。

 

一方、映像の見せ方として天才だと思ったのは、クライマックスの後にある。さんざちちくりあってきた絶世の美女を振り切って自分のテロ道を進むぞ! と思い直したハサウェイの前に、本来の彼女がヒョコっと顔を出す。つまり彼は浮気しかけてたわけだ。その彼女の絶妙な地味顔、そして一言も「恋人」とは言わないのに、絵の表情だけでそれが見えてしまうアニメの表現力は、見事としかいうほかない。残酷なテロリズムやってきたのにやたら爽やかな印象を残すエンディング曲も含め、3部作の第1部ながらロマンティック・コメディとして見事にオチがついてる。

 

余談2:恋愛映画でもうひとつ

ウディ・アレンとは全く別の作家の作品だが、映画の色彩を見ていて、これも恋愛映画の名作『花様年華』を思い出した。いや、探せばもっとダイレクトなオマージュ作品が見つかるとは思うけど、こんな懐かし映画思い出しちゃうなんて、思春期来あんまり映画観てないですねわたし。でもそういうものを思い出させる映画だったんですよ。

 

*1:奇しくも富野自身が作った『Gのレコンギスタ』にも、魔性の女の象徴として大きなピアスをつけたキャラが出てくる